沖縄戦の縮図と呼ばれた島 伊江島で戦後77年目の平和祈願祭
77年前、激しい空爆と地上戦が展開され「沖縄戦の縮図」とも呼ばれる伊江島で犠牲になった人たちの霊を慰める平和祈願祭が21日3年ぶりに開かれました。
嘉数圭人記者「真っ白なテッポウユリが咲き誇る伊江島が77年前壮絶な戦場だったことを知る人はそう多くはありません。」
伊江島が戦火に巻き込まれる発端となったのがかつて東洋一と言われた旧日本陸軍の飛行場です。
日本本土への出撃拠点としてこの飛行場に目をつけたアメリカ軍は1945年4月激しい空爆と艦砲射撃を繰り返し伊江島に上陸。
地上戦は日本の守備隊が全滅するまで6日間続きこの間、戦闘に加えられたり集団死に追い込まれたりした住民1500人を含む軍民あわせて3500人が犠牲になりました。
島での戦闘が終結した4月21日にあわせ犠牲者の御霊が祀られている芳魂之塔では3年ぶりに規模を縮小して平和祈願祭が開かれ遺族や関係者およそ40人が花を手向けるなどとして哀悼の意を捧げました。
親族8人を亡くした大城和子さん「これおじいちゃん。お父さんで、私の兄弟。これが私の兄弟です。これだけ全部。今のウクライナの戦争を思い出します。この戦争と同じように思っています。」
「私の親戚は伊江島に落ちる弾は雨の降るようにあった(と言っていた)そうです。兄弟も皆亡くなっているから自分も死にたいと言ってですよ。地雷ですよ地雷。あれ踏めば死ねると思ってあっちこっち彷徨い歩いてですよ。戦争は二度としてはダメです。」
犠牲者を出さない家は1つも無いと言われる伊江島は沖縄戦の縮図とも呼ばれています。
兄を亡くした女性「これが私の兄貴。(当時)小学校2年生になりよった。私が1年生だったわけ2人兄弟だったからとても良いお兄ちゃんだったから。照明弾が上がったら今明るいから逃げようと言って逃げたりしてあっちこっち皆逃げ回った。」
「逃げる途中に兄貴は機関銃の弾があたった。夜のうちで出血多量で亡くなっていた。伊江村全部アメリカの船じゃなかったかね。周囲全部。もう怖かった。」
参列者は伊江島での悲惨な過去を繰り返さないよう次世代にも思いを引き継ぎ恒久平和の為に祈りを捧げました。
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