対馬丸の引率教師 糸数裕子さん死去 自責の念の中体験語った生涯
学童疎開船・対馬丸の生存者で、引率教師だった糸数裕子さんが97歳で亡くなりました。教え子を船に乗せた自責の念に苦しみながらも体験を語り続けた生涯を振り返ります。
太平洋戦争末期の1944年8月22日、疎開する子どもたちを乗せた学童疎開船・対馬丸はアメリカ軍の攻撃を受けて沈没し、およそ1500人が犠牲となりました。
糸数裕子さん(2014年取材)「たくさんお母さん、お母さんという声が聞こえる。先生助けてーという声も聞こえるんですよ。」
引率教師だった糸数裕子さん。国策に従って子どもの疎開に不安を抱く両親を説得して回り、13人の教え子とともに乗船しましたが、みな帰らぬ人となりました。
子どもたちは救えずなぜ自分だけ生き残ったのか。戦後、沖縄に戻った裕子さんは・・・。
「引率で行って生徒は死んだんだからね。自分は生きていますという事は人に言ってはいかん。父もね、責められてるわけ。あなたの娘が子どもを殺したと。娘を返せ、娘を返せ!と言ってね。」
生存者として名乗り出るまでに30年以上の月日を要した裕子さん。自責の念に苦しみながらも、その体験を語り継ぎ対馬丸の子どもたちに向き合う日々を過ごしていたと対馬丸記念館の外間邦子常務理事は振り返ります。
対馬丸記念館外間邦子常務理事「いちばん多く語らないのは、語れないのは、先生の思いの深さ、辛さ、子どもたちの名前を呼べない。」
裕子さんと同じように苦しみ体験を語るどころか沖縄に帰らなかった引率教師もいました。先月29日に97歳で亡くなった糸数裕子さん、最後は安らかな表情だったそうです。
外間邦子常務理事「やっと子どもたちに会えるっていうのかな、毎晩子どもたちの夢を見ていたからね。これからはまた対馬丸の子どもたちと先生っていうことで、私たちが語っていくと思いますね。」
最後まで子どもたちを思い続けた糸数さんの姿はこれからも語り継がれ、決して悲劇を繰り返してはならないことを訴え続けます。
糸数裕子さんの葬儀は5日、ご家族と対馬丸記念館の関係者で執り行われました。
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