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命を救った母の言葉 家族を手にかけた悲劇を語る理由

▽吉川嘉勝さん
「自分の体験を現場で語れるのも今年くらいまででしょうから。どうして自決から生き延びたかを説明したいと思います」

吉川嘉勝さん84歳、6歳のときに沖縄戦に遭い渡嘉敷島で起こった「集団自決」を逃れ生き延びました。

1945年3月26日、アメリカ軍は沖縄本島に先立ち慶良間諸島に続々と上陸。

翌日27日には渡嘉敷島に上陸し、島民は日本軍から島の北部にある北山に集まるよう命令されたといいます。

▽吉川嘉勝さん
「防衛隊からの知らせで『米軍が阿波連から上陸してくるから、全員北山に集まれ』と。『赤松隊長(日本軍)の命令だ』と。持てるだけのいろんな物を持って、僕は(当時)小学校1年に上がる年だったから、買ってもらったランドセルを担いで山に上がった」

吉川さんは父・次良さん、母・ウシさん、そしてきょうだいたちとともに山へ。

山には数百人の住民がひしめきあっていたといいます。

▽吉川嘉勝さん
「やがて当時の村長がみんなを集めて何かをしていた。そのうちみんな『天皇陛下万歳、万歳』と言って万歳三唱したあと、私はそのときに手榴弾の爆発音が非常に印象に残っている。『バンバン』と鳴って、うちの三男(兄)が手榴弾を2個持って『じゃあ僕らもやるよ』と。信管を抜いて『わったーもやるよ』と言ってポンと。爆発しなかった。一発目は。『じゃあもう一つあるからやるよ』と言って、もう一つも同じように爆発しなかった」

吉川さん一家が持っていた2つの手榴弾はいずれも不発。

父・次良さんが火をつけて手榴弾を投げ込もうと言ったそのとき、母・ウシさんが大声で叫びました。

▽吉川嘉勝さん
「『そうだ、勇助(兄)、手榴弾は捨てろ』と。『いとこの兄さんは逃げる準備をするじゃないか。そうだ、人間は死ぬのはいつでもできる。みんな立て、兄さんを追って(逃げなさい)』と言ってね、方言で喋って。母が喋った凄まじさを僕は非常に覚えている」
「最後は『命どぅ宝さ』とお母さんが言っていた。『命どぅ宝やさ』と母が言うと、みんな立って歩き出して逃げて行った」

母・ウシさんの叫びで家族や周りにいた50人が北山を逃げ出しました。

住民たちが持っていた手榴弾のおよそ半数が不発だったといわれています。

死ぬことができなかった家族は親子、きょうだい同士で鎌や鍬で殴り合ったり縄で首を締めたりと互いに手をかけていったのです。

集団自決が起こっている山から逃げる最中、吉川さん一家の列に爆弾の破片が飛んできて吉川さんの少し前を歩いていた父の頭に当たってしまいました。

▽吉川嘉勝さん
「親父が頭をやられて、頭が破裂して倒れて、一言『ウーン』とうなって終わり」

父はその場で亡くなりました。

もう動かない父を置いて逃げた吉川さん一家。その後5ヵ月以上山の中で避難生活を送りました。

戦後、吉川さんは本島で中学理科の教師として定年まで勤めていましたが、自身の体験を生徒たちの前で語ることはほとんどなかったといいます。

▽吉川嘉勝さん
「集団自決場において、被害者であると同時に加害者である方も少なくないわけです。被害の話をしていると、あのときの加害者は誰と分かってしまう。だからこれまで語ってこなかった。みんな沈黙を通してきた」
「思い出したくもないと同時に語りたくもない。こういう厳しい精神的な葛藤があった」

吉川さんが証言を始めたのは15年前の出来事がきっかけでした。

▽吉川嘉勝さん
「大きなきっかけは、9・29県民大会。2007年の」

2007年、高校の歴史教科書から集団自決に日本軍が関与したという記述が削除されました。

▽吉川さん当時の会見の様子
「今回の教科書検定の問題、これはずっと自分が気にしていたことが現実になって、もう黙ってはおれんと」

文部科学省の検定意見の撤回を求める県民の怒りは大きなうねりとなり、11万6千人以上が集まった県民大会に発展しました。

▽県民大会で訴える吉川さん
「配備された日本軍の関与がなければあのような集団自決は絶対に起こっていません。歴史を歪曲する集団自決の改ざんを許してはなりません」

吉川さんはこの日をきっかけに自身の体験を語り始め10年以上にわたり平和ガイドに取り組み続けました。

吉川さんが語り始めたもう一つの大事なきっかけ、それは母・ウシさんの山の中での行動です。

▽吉川嘉勝さん
「思い出したくもない喋りたくもないという中で喋り出した根底は、母の当時多くの人を救った(あの言葉)。その背景があって喋り出したと思う。僕は母の勇気ある行動、これはもう限りなく誇りに思い、母をずっと尊敬していたもんだから」

▽記者
「どうしてお母さんは逃げようという判断をしたと考えますか?」

▽吉川嘉勝さん
「これはね、ずっと悩んできました。なぜ母があんな判断をしたのか。日中戦争で兄貴を亡くした。戦争の悲惨さ、悲劇の家族の死というものがどういうものであるか、ひしひしと感じて生きてきた。そういった背景があったのかなと。これは答えのない、私の問い続けたい疑問です」

戦後78年当時6歳だった少年の心に刻まれた母の言葉は、命の重さと生きる意味を問い続けています。

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