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東京沖縄県人会「故郷ウチナーへの思いで結成された67年の歩み」

東京に住むウチナーンチュ同士が交流しながら、沖縄の伝統文化や芸能を発信する様々なイベントを企画しているのが東京沖縄県人会です。
今から67年前、どのような思いで県人会は結成されたのか、また先月東京で行われたある沖縄の伝統行事の盛り上がりをお伝えします。

ホテルニューオータニ東京
9月18日、東京都内のホテルではなかなか見かけない光景が・・・
数え年で97歳の長寿を祝う沖縄伝統の生年祝い「カジマヤー」ではおなじみの風車にオープンカーで登場したのは、川平朝清さんです。

沖縄で戦後初めてのアナウンサーとして活躍し、テレビやラジオ放送の発展に尽力、現在、東京沖縄県人会の最高顧問も務めています。

県人会の50年のあゆみをまとめた記念誌に当時の会長だった川平さんが寄せた一文です。
「かつて薬膳のように扱われたゴーヤーチャンプルーやラフテーは身近なものになり、音楽や舞踊もファン層を広げつつあります。しかし、いいことばかりではありません。50年記念誌教科書検定問題であり、米軍基地のもたらす数々の不祥事癒しの島と喧伝される一面がある一方、癒されない一面もあるのが沖縄の現状です」

東京沖縄県人会が結成されたのは1956年。
結成当時、沖縄はアメリカの施政権下にあり祖国復帰運動が盛んに行われていました。

▽東京沖縄県人会仲松健雄会長:
東京にいるウチナーンチュも沖縄のために一緒になって、活動しようじゃないかと。東京沖縄県人会として沖縄のウチナーンチュの心に寄り添った形での活動という活動方針も打ち出した。

1981年OTVリポートより:
「神山政良氏らは東京の県人会メンバーを集め沖縄の日本復帰について何度も話し合い極東軍司令部や日本政府に訴え続けました」

こうした流れの中で東京沖縄県人会は結成され、大行進やハンガーストライキを行い沖縄返還を訴えたのです。

仲松会長は、「当時はインターネットとかそういうのありませんから、情報はどうしても東京と沖縄、格差があるなかで東京にいる東京沖縄県人会ウチナーンチュが直接政府と交渉する。あるいはアメリカ大使館に行くとか、そういう動きというのは、非常に効果的だった」と回顧する。

復帰運動以外にも、1959年に起きた宮森小学校ジェット機墜落事故を受けて強い姿勢で対米交渉をするよう政府に要請。2007年には、沖縄戦の集団自決について、日本軍の関与が削除・修正された文部科学省の教科書検定に対し東京都内で県人会主催の集会が開かれ、教科書検定の撤回を求める意見書が採択しました。

離れた土地にいても故郷を思う人たちが集い、行動を起こしてきた歴史。

仲松会長は、「県人会の活動の原点は沖縄愛とふるさと貢献なんです」と力説する。

現在の東京沖縄県人会の活動は、沖縄の伝統文化や芸能を通じた交流が中心となっていて、仲松会長は、「沖縄にいるよりもむしろ沖縄を離れて東京にいる方が沖縄に対する、伝統芸能とか、沖縄への思いが強いく離れていても感じている」と
話す。

故郷の魅力を東京の人たちにも伝え広めていこうと東京沖縄県人会はイベントも開催してきた。首都圏のど真ん中で、沖縄伝統芸能を発信することによって沖縄芸能ファンを作ってきた仲松会長は、先月行われたカジマヤーを祝う会も、県人会のシンボルでもある川平さんの長寿を祝うとともに、沖縄の伝統文化とぅしびー祝いを県外の人にも知ってもらうきっかけになったと感じています。

▽東京沖縄県人会・仲松会長
『カジマヤーは沖縄の伝統芸能ということで、沖縄では盛んにやってますけど、全国でカジマヤーを知っていただきたいんです』

▽川平朝清さん:
『沖縄にいるときはカジマヤーということで、村や町でやって、しかもね、ところによっては、オープンカーでパレードしてその前を小学生たちの鼓笛隊とか、沖縄っていうのはお年寄りを本当に大事にするところだなと思っていたら、私がそういう歳になって非常に感激すると同時に、感謝してます』

各都道府県の県人会がそれぞれの地域にある中、東京沖縄県人会があゆんできた独自の歴史。これからも続く活動は故郷沖縄への思いで作られていきます。

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