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宮古・八重山地方の民放テレビ開局から30年 知られざる絆の物語

宮古・八重山地区で民放テレビ開局がしてから12月16日ででちょうど30年を迎えます。

先島の人々が歓喜した民放テレビの開局。実現に向けて動いた当時の郵政大臣渡辺秀央さんにインタビューすることができました。

渡辺さんが語った先島での民放開局への想い。そこには、沖縄戦で命を落とした兄と宮古島出身の豪放磊落な人物とを結ぶ深い絆の物語がありました。

今から30年前の1993年12月16日。

宮古・八重山地区で暮らす人々が長い間待ちわびていた日がついにやってきました。

悲願だった民間テレビの放送が始まったのです。

沖縄本島でテレビ放送がスタートしてから実に34年後のことでした。

その日、島には笑顔があふれました。

島民
「長い間、なんとなく沖縄とかけ離れているような感じがしておりましたけどそれがもう一緒になって素晴らしいことだと喜んでおります」

渡辺秀央さん
「とってもいい思い出。いま考えるとね」

懐かしそうに当時を振り返るのは、海底ケーブルを設置し先島民放開局のビッグプロジェクトを推し進めた当時の郵政大臣・渡辺秀央さん。

渡辺秀央さん
「もう私はこういう性格なもんだからバッチっと郵政省で単独でやってやれ!って言って思い切って、郵政の特別会計の中で一銭も地元に負担させないで海底ケーブルを全部やった。現職の郵政大臣の時よ。そんなこともあったりして、沖縄に対してはもう殊の外の想いはあった一人なんです」

郵政大臣だった渡辺さんが抱いていた沖縄への特別な想い…そこには沖縄で戦死した兄・渡辺祐輔の存在がありました。

渡辺秀央さん
「ひと回り12歳違うんだ兄貴・祐輔とは。戦争が始まる前、満蒙開拓でね。兄は大陸に渡った…。兄貴は北京に行ってすぐにね、お袋と親父に手紙を書いてきたのは、下里恵良というものすごい偉大な青年政治家をめざしている人に出会ったと。下里さんの、彼の精神的な影響を随分と受けたんだと思う」

秀央さんの兄・渡辺祐輔が北京で出会い強烈に影響を受けたという人物。

それが宮古島出身の下里恵良でした。

下里恵良。復帰前の沖縄で活躍した保守系の政治家であり、弁が立つと評判の人気弁護士でもあった人物。

その演説の上手さと常識にとらわれない発想力でついたあだ名は「ラッパ下里」。

2020年に公開されたドキュメンタリー映画「サンマデモクラシー」にも登場した下里恵良。

復帰運動の起爆剤になったといわれる「サンマ裁判」の弁護士をつとめた下里恵良は、沖縄を統治していた絶対権力・高等弁務官に立ち向かった男として脚光を浴びました。

後に「ラッパ」と呼ばれることになる青年・下里恵良は戦争前夜の北京で政治結社「興和青年同盟」のリーダーとなっていました。

Q(興和青年同盟は)アジアをどう統治していくかって?
渡辺秀央さん
「統治じゃないのよ。アジア解放なんだよ。植民地解放なんですよそれによって日本が尊敬される」

日本中から集まっていた血気盛んな青年たちを束ねる存在だった下里恵良。その右腕として恵良を支えていたのが渡辺祐輔でした。

渡辺秀央さん
「下里恵良先生と渡邉祐輔のいわゆるこの同志的な人間関係。兄弟、ほんとに兄弟みたいな関係だったみたいだな。だからほんとにお互いに敬愛し合っていた。まあ、下里さんは兄貴の事を大事に”立派になれよ”と教育した面もあったでしょうし」

固い絆で結ばれた下里恵良と渡辺祐輔の2人は、自分たちの信念で日本を導くのだと選挙に打って出ます。

しかし、その志は叶わず…。2人運命は戦争によって引き裂かれました。

下里恵良は南洋の戦地へと向かい、渡辺祐輔は日本のスパイ養成機関として知られたあの「陸軍中野学校」へ。

渡辺秀央さん
「中野学校の優れた連中たちが指導して『死ぬ』ことよりも『生きのびる』。生きのびて国家の為、国民の為、そういう特殊な訓練を受けたんですね」

そして渡辺祐輔は太平洋戦争末期、米軍上陸後の沖縄へと向かう決死の作戦「義列空挺隊」に志願しました。

渡辺秀央さん
「義烈空挺隊っていうのは爆弾落としたり体当たりするっていうのではなく(米軍)飛行場を機能不全にするという作戦だったんですね。それで兄貴も真っ先に志願して行った。選ばれたんじゃなくて志願して行った」

Qお兄様が志願したのはやっぱり下里恵良との若いころの?
渡辺秀央さん
「そう若いころの情熱だね。これもう半分はあるね」

兄のように慕う下里恵良の故郷・沖縄へと飛び立った渡辺祐輔。彼がどのような最期を迎えたのかはわかっていません。

渡辺秀央さん
「まあこれは兄弟としての肉親としての想いだけど、ほんとにね骨見ているわけでもないしね。絶対に生きていると。沖縄でね。何か仕事をやっているんじゃないかとかね。肉親ってそういうもんですよ。死んだ姿見てないからね」

兄・祐輔の死を受けとめつつも、心のどこかで希望を捨てきれないまま、いつしか30年もの時間が過ぎた頃、突然、渡邉祐輔の母親が沖縄の下里恵良の元を訪ねました。

戦死したと諦めた息子・祐輔がもしかしてまだ沖縄で生きているのではないか…

そんな想いに突き動かされての行動でした。

下里恵良はその時初めて弟のように可愛がった渡辺祐輔が沖縄で非業の死を遂げたことを知りました。

「自分にも責任の一端はある」そう言って泣いた恵良。

祐輔の母にこう言いました。

「どうか私をセガレだと思って何なりと言い付けてください」

そして下里恵良はその約束を果たします。

渡辺秀央さん
「私の一回目の選挙の時に下里さんが来てくれた。一週間滞在してもらったって(聞いている)」

1976年、渡辺秀央さんは新潟選挙区から衆議院議員選挙に初めて出馬。

渡辺祐輔の弟を応援するために駆けつけた下里恵良は、一週間にわたり応援演説をしたというのです。

渡辺秀央さん
「そこで下里さんがものすごく演説が上手かった人だそうだ。僕が国会に出るなんていうのを聞いてわざわざ沖縄からね…。まあ祐輔の身代わりになるんだろうと思ってくれた。僕は兄貴が生きていたら絶対、政治家になったと思うこれは間違いなくなったね」

そして秀央さんは見事に初当選。

その後、中曽根総理を支える右腕として活躍し1991年には郵政大臣に抜擢され、そしてあの先島民放開局へと繋がったのでした。

渡辺秀央さん
「まあ一生懸命やってきたつもり。兄貴がもしかしたら待っているかもわからないし…」

先島の人々が待ち焦がれていた民放テレビの開局。

そのビッグプロジェクト実現の裏には、宮古島生まれの「ラッパ」と呼ばれた豪放磊落な男と、彼を兄のように慕いながら沖縄戦で散っていった青年の友情の物語がありました。

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