陸上選手だった晃さん演じて 宮森小ジェット機墜落事故の平和劇
65年前、現在うるま市石川にアメリカ軍のジェット機が墜落し小学生などが犠牲になった事故を伝えようと子どもたちが劇を上演しました。墜落事故でその後の人生が大きく変わった1人の男性を主人公にした劇を通して子どもたちは平和について考えました。
「誰かいませんか、助けて下さいここに子どもたちがいます!」12月、沖縄市の島袋小学校の5年生と6年生が上演した平和劇。
今から65年前の1959年6月30日。事故後の映像現在のうるま市石川にアメリカ軍のジェット機が墜落し、宮森小学校の児童や周辺住民、18人が犠牲になり200人以上が火傷などを負った宮森小学校ジェット機墜落事故。65年前の悲劇を子どもたちが演じた平和劇には犠牲になった人たちを忘れてほしくないという願いが込められました。
石川部落事務所ジェット機事故についての証言を集め資料集や証言集を発刊してきた石川宮森630会は現在、漫画の制作に向けた準備を進めています。
石川宮森630会久高政治会長「大けがをしながらも回復して、沖縄1のスプリンターになったけどジェット機事故の後遺症で大学生の時に亡くなってしまう。」漫画の主人公は事故の犠牲者の一人、大やけどによる後遺症のため23歳で亡くなった新垣晃さん。
久高会長「彼の生きざまみたいなものを漫画で作れたらいいなと思っています晃さんの人柄や火傷のあとを周囲がどう見て感じていたのか。」高校や大学の同級生幼馴染に声をかけ、聞き取りを行っていて、この日は事故が起きた時晃さんと同じ教室にいた当時の2年3組の子どもたちが集まりました。
「水道であやこ先生が晃を冷やしている先生どうしたのと言ったら、逃げなさいとしか説明しない自分は飛行機が落ちたという印象は全くない。」「入院した私たちは。ヘリコプターで陸軍病院に運ばれた。」
(劇の墜落シーン)「誰か助けて!お父さんお母さん助けて。」事故のあと、自分の子どもの安否がわからず、探し回る親たち。重症を負った我が子を前に立ち尽くす様子など島袋小の平和劇はこれまで630会が集めてきた証言や漫画の制作に向けた聞き取りを元に脚本されました。
「晃さんはひどい火傷を負って体の半分の皮膚が焼けてしまいました。」「これは左手グジュグジュになっていたよ。まだケロイドになっていない。」晃さんは全身の半分にも及ぶ火傷を負いましたがその後回復し、同級生たちとともに成長していきました。
晃さんの同級生稲福晃さん「手も足もケロイドはあったけど、体はとても元気だった。一緒に走り回って遊んだ。」石川高校に進学後晃さんは陸上部に所属しました。
(劇)「晃、何で長袖着てるんだ?」「暑いけど・・・服は脱げないんだ。実は僕の体にはケロイドがあるんだ、とても醜いんだ。」
「部活というと短パンなんですよねだけど彼は火傷の痕があったんですよね。長いトレパンで練習していた。」「彼は根性があって、すごく頑張り屋だった県の大会で優勝する程の陸上選手となった。」晃さんは、明るい人柄で仲間たちとの交流を深めていきました。
「キャンプに行ったり、晃のお母さんの車を拝借してあっちこっちドライブに行った。楽しい思いでがたくさんありました。(晃は)本当にヒーローでした。」体育教師を目指して琉球大学に進学しましたが火傷の後遺症と考えられる内臓の多機能障害で晃さんは23歳でこの世を後にします。
「僕はジェット機事故がにくい。事故の後遺症のケロイドがにくい。お母さん、今までありがとう。」
晃さんの役を演じた蔵當琉久さん「本当にこの事故は全員悲しくて、この劇を通してさらに色んな人に伝えていって、晃さんや他の犠牲者の思いが消えないようにしたいです。」
平和劇を上演しようと提案したのは以前宮森小学校に勤務していた嘉陽哲子先生です。島袋小学校嘉陽哲子先生「劇を通してだと子どもたちも親とか、亡くなった子の親や亡くなった方の気持ちに寄り添うことができたので平和劇をやってよかったなと。」
劇の練習に入る前に子どもたちは実際に宮森小に足を運んだり、壁新聞を制作して学んできました。
勢理客伽奈さん「新垣晃さん以外の亡くなった人たちの話とかも劇にしてみんなに知らせたいと思いました。」與那嶺晄さん「色んな人に事故の悲惨さを伝えたいと思いました。」
石川宮森630会久高政治会長「劇で表現されていることがそのまま・・思い起こしてしまうので、つい涙も出てしまうシーンもありました。子どもたちが伝える平和というのがある大人にも、見ている後輩たちにもしっかり伝わったと思います。」
事故の悲しみが二度と繰り返されぬよう願う気持ちが当時を知らない子どもたちにも広がっています。
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