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戦時中の疎開生活はどういうものか小学生が追体験 戦争の記憶を風化させずつなぐ
太平洋戦争末期、アメリカ軍の攻撃を受けて多くの命とともに海に沈んだ「対馬丸」に乗っていたのは、疎開のため九州に向かっていた子どもたちであった。
2023年12月、沖縄県内の小学生が疎開先だった宮崎県を訪ね、学童疎開を追体験した。
現代の小学生たちはそこで何を学び、感じたのだろうか。
小学生が戦時中の疎開を追体験
年の瀬も押し迫る2023年の12月27日、那覇空港に集まったのは沖縄県内の小学5・6年生10人。
これから1945年に沖縄戦が起きる前、疎開先の一つだった宮崎県を訪ねる。
天妃小 仲宗根愛美さん(5年)
「疎開を体験した人の衣食住や、過ごし方、どれだけ悲しい思いをしたのかを体験できたらと思っています」
当山小 眞榮城百恵さん(5年)
「おばあちゃんが疎開先でお世話になっていた学校を見学するのがとても楽しみです」
学童疎開を追体験する3日間の旅だ。
若い世代につなぎ平和の礎に
太平洋戦争末期の1944年、沖縄に戦争の足音が近づく中、国は沖縄から子どもや女性など10万人の疎開を決定。
子どもたちは学校単位で親元を離れ、九州各県へと向かった。
しかし、子どもたちを待ち受けていたのは過酷な疎開生活であった。
研修1日目、鹿児島空港に到着した一行は、宮崎県を目指した。
学童疎開の記憶を若い世代につなぎ、平和の礎にしたいと対馬丸記念会が企画した「学童疎開体験事業」。
3日間を通して戦争と平和について考える。
修学旅行ではなく今回は、戦時中の疎開体験。
食事も当時と同じものをいただく。
対馬丸記念館 堀切香鈴 学芸員
「きょうのごはんのメニューが、大根のごはん、みそ汁と梅干し、お漬物です」
参加した小学生
「いただきます」
量は少なく、味付けも最小限。
当山小 眞榮城百恵さん(5年)
「腹八分にもなっていない。全然足りない気がします。(疎開していた)子どもたちはこれすら食べられなかったかもしれないから、大変だったし、ひもじかっただろうなと思います」
子どもたちは研修中、質素な食事が続く。
研修2日目に一行が訪れたのは、80年前、浦添国民学校から130人の疎開を受け入れた宮崎県日向(ひゅうが)市。
迎え入れたのは当時、国民学校1年生だった甲斐誠二さん(86)。
浦添から来た疎開学童の過酷な生活を鮮明に記憶していた。
子どもたちは、疎開にゆかりのある地を見学した。
甲斐誠二さん
「疎開生は薄着で来ていました。とても寒い冬でしたので、子どもさんは大変寒かっただろうと思います。“ひーさん、ひーさん(寒い、寒い)”ということでしょうか」
甲斐さんは、1年生のときに見たあの光景がいまだに目から離れず、思い出すだけ涙がでるという。そのため、二度と子どもたちに同じような体験をさせてはならないという思いで、語り部として活動している。
戦後、日向の人々は平和の誓いを込めて、市内随所に記念碑を建立した。
「物言わぬ語り部」として学童疎開の過酷な記憶を伝え続けている。
暗い夜の海に投げ出されるとはどういうことか
この研修の重要な企画、船に乗って暗い夜の海に出るため、日が沈みかけているこの時間に子どもたちは港を訪れた。
疎開する学童たちは船に乗せられて、九州へ向かっていた。
三日三晩かかったといわれている。
1944年8月、学童を含む1700人あまりを乗せ九州に向かっていた疎開船・対馬丸は、アメリカ軍の攻撃を受けて沈没。
わかっているだけでも784人の学童が犠牲となった。
暗い海に投げ出されるとはどういうことなのか、わずかでも感じ取ってほしいと考案された企画だ。
天妃小学校 仲宗根愛美さん(5年)
「投げ飛ばされるって考えたらとにかく怖いし、緊張したし、何よりも海風が寒かった」
真地小学校 大濱梨乃さん(6年)
「(周りが)見える暗さだったけど、多分当時はもっと見えなくて何もできない状況だったと思う。もう怖くて仕方がないです」
家族に会いたい寂しさがでてくる
研修3日目。研修最後の食事。
大謝名小 與那覇朝惟さん(5年)
「今まで普通に食べていたものは、当たり前のことではないということがわかりました」
宮崎で過ごした3日間、戦時中の学童たちの貧しさや過酷な生活環境に思いをはせた子どもたち。
事前学習で当時の状況を勉強してきたが、実際に体験することでどのようなことを学び感じたのだろうか。
当山小 眞榮城百恵さん(5年)
「家族と離れ離れになるってあんまりないことだから、疎開中の子どもたちも周りに知っている人たちがいなくて、寂しい思いをしたと思います」
北谷小 上間叶葵さん(5年)
「一番は家族に会いたいっていう寂しさが出てきちゃうかな。(寂しさは)疎開した子たちが感じたことと一緒なのかなと思っていて、この気持ちを大切にしたいなって思います」
1944年8月の対馬丸事件の悲劇から、まもなく80年が経過しようとしている。
疎開とは何だったのか、戦争が遺したものは何なのか。
記憶をどう繋ぎ伝えていくか、これからを生きる若い世代へバトンが渡されようとしている。
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