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OTV報道部

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復帰を知る vol.16 ~琉球警察~

沖縄は2022年、本土復帰50年の節目を迎える。OKITIVEでは「本土復帰50年企画」として、2012年に沖縄テレビのニュース番組内で特集したシリーズ企画「復帰を知る」などの過去の放送素材と、新たに取材した復帰にまつわる内容などを加えて特集していきます。
16回目は、琉球警察についてです。

本土復帰に伴い発足した沖縄県警察。復帰前は、琉球警察が沖縄の治安維持にあたり本土の警察とは違う歴史を歩んできた。アメリカ占領下で、任務にあたった彼らの思いとは。

警察庁 片桐長官
「沖縄の地は戦後アメリカの施政権下におかれ、他県の警察官にはないような苦労をずっと続けていただいたわけであります…」

琉球警察が任務にあたったのは1952年から日本復帰までの20年間。警察装備などは、アメリカ民政府を反映させるものだった。

元琉球警察 濱元朝金さん
「拳銃、カービン銃、これも大型武器として装備していたけど、パトカーもですね、当時は米軍の払い下げです」

そう話すのは、濱元朝金さん。1956年、琉球警察にはいり、コザ署などの勤務を経て警察学校長を務めた。当時は、現在の警察とは異なるさまざまな業務が、琉球警察に託されていたという。

元琉球警察 濱元朝金さん
「入国管理、海上保安これもまとめて警察がやっとった」

さらに、1960年、祖国復帰協議会が発足され復帰にむけた大衆運動が、盛んになると琉球警察はそのたびにデモ警備にあたることになった。

元琉球警察 濱元朝金さん
「毎日のようにデモがありましたから、復帰前後は、道路を全部占拠されて交通も全部ストップするわけで、そういう状態でほっとくわけにもいかないから、どかせるという警備であって、この人たちと本当に対立をして闘争をするというのとは違うんですよね」

根底にあるのは常に沖縄の治安と平和を守るという使命感だった。

元琉球警察 濱元朝金さん
「当時の大衆運動の指導者のみなさんと常に接触をして、どこまで、警察としてもここまでは我々としても手を出しませんから、ここで止めてくれというふうな形で、よく調整をしておったわけです。同じ県民ですから、県民どうしが憎み合うっていうのもってのほかですからね」

しかし、復帰を翌年に控えた1971年の秋、悲劇が起こった。過激派集団の投げた火炎瓶と暴行により、与那原署勤務の山川巡査部長が殉職。時代の犠牲者だった。激動の中の警察任務。彼らを支えたものとは…

元琉球警察 濱元朝金さん
「県民のためにというあれがあるわけですよね。治安を担っているのは自分らだと。我々が投げたら誰がみるんだと、そういう気概はあったんですよ」

しかし、そんな気概を持ってしても取り締まりが困難だったのがアメリカ軍人や軍属の犯罪だ。逮捕権は現行犯に限って認められていたが、逮捕したらすぐアメリカの憲兵隊に、引き継がなければいけなかった。1960年に結ばれた日米地位協定の壁が高くそびえ立っていた。

元琉球警察 濱元朝金さん
「これは私たちの力ではどうしようもないんですね、国対国の話ですから。しかも、まだ琉球政府じゃどうしようもないですよね。不満はもっておっても当時としては、それをおおっぴらにぶつけるわけにはいかないんですよね」

アメリカ軍統治下。正義を貫けない悔しさにさいなまれる時代だった。

そして迎えた1972年5月15日。沖縄の日本復帰と同時に琉球警察は、沖縄県警察として新たな一歩を踏み出した。復帰に先立ち、海上保安業務などが国の管轄へと移行されるなど、業務は分業化され、警察装備も充実。組織は拡大し本土化が進んだ。

しかし、変わらないのが日米地位協定の壁。県警が満足に現場検証すらできなかったヘリ墜落事故。基地の中にかくまわれ引き渡されない身柄。依然として、警察は厳しい現実と対峙している。

元琉球警察 濱元朝金さん
「今は基地の外においては警察が管轄しているんだと、基地の外であれば公務中であろうが非公務中であろうが本来は犯罪者なんだから。ちゃんと警察の管轄内にいれるべきだと思うんですけどね。そういったことも今後見直していくべきだと思います」

復帰50年未来へ オキナワ・沖縄・OKINAWA
2022年5月15日(日)正午から沖縄県内のテレビ8チャンネルにて生放送!

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