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呉屋秀信 ~鋼のような実直さを信念とする金秀の創業者~【オキナワ強者(チューバー)列伝】
1972年5月15日、沖縄は日本復帰。あれから50年という歳月が流れた。
戦後、アメリカの占領統治下での苦難を乗り越え「復帰」にたどり着いた沖縄。
世紀の「世替わり」の裏側では、時代を切り拓いた「強者(チューバー)」がいた!
「世替わり」という激流の中で奮闘した「強者」の姿にスポットを当てる!
※チューバー:琉球語で「強い」「強がる」「気が強い」「勇気がある」の意
今回は「流通」をテーマに、今日の生活にも馴染みの深い沖縄県内を代表する流通小売業3社の創業者をご紹介。
いかにして本土復帰前後の時代の変わり目を乗り越えてきたのか、3人の強者の苦難や葛藤、決断の物語を紹介します!
はちゃめちゃでパワフルな男たちの物語!
「流通」の強者(チューバー)3人目は、呉屋秀信!!
呉屋秀信は、1928年(昭和3年)西原生まれ。
沖縄戦の終戦後、戦火を逃れて運良く焼け残った実家の庭で鍛冶屋を開始。
農具だけではなく鍋なども造り、呉屋秀信のモノ作りは評判となった。
1947年、19歳で正式に「金秀鉄工所」を設立した、後の金秀グループ創業者である。
鉄の金秀発展に繋がる、社運を懸けたビッグプロジェクト。 呉屋はそのとき従業員をどう導いたか。
1960年は、金秀鉄工所にとってターニングポイントとなる年となった。
北部製糖工場と、西原製糖工場の2件の鉄骨工事を受注したのである。
一つだけでも手一杯な大工事。それが二つも舞い込んできた。
従業員の多くがかつてない不安を抱く中、
呉屋秀信は、
「どちらも同じ製糖工場、一つが出来れば二つもできる、騒ぐ事は無い」
と、組織のトップとして大きく構え従業員を鼓舞したのであった。
言葉だけでなく行動でも示す。
日中は地上3階建ての鉄骨に上り、社長自ら陣頭に立って指揮。
夜は泡盛を酌み交わしながら現場の士気を高める。
これこそが、呉屋なりの叱咤激励。
気性の荒い鳶職や若い工員たちと寝食をともにし一つにまとめあげた。
地元のさとうきび農家は「わが村に工場ができる」と期待を膨らませながら農作業に励んだ。
だからこそ予定通りの操業開始は金秀にとって、そして呉屋にとっての至上命題であった。
まさに死闘というにふさわしい努力の末、工事は期待通りに年内で完工した。
収支を計算すると2万ドルの赤字だったという。
しかし、それに代わって金秀鉄工所と呉屋秀信は教訓と信頼を得たのであった。
まさに完成した北部製糖工場の社長で、金秀の仕事ぶりに賛辞を送った人物こそが、第2回食のチューバ―編で紹介した仲田睦男氏(オキコ創業者)であった。
こうして鉄鋼業で成功した呉屋が、その後どのような形で沖縄の”流通”に関わっていったのか。
そのほか、呉屋秀信のチューバー列伝はこちらをご覧ください。
「アメリカ世」から「ヤマトの世」へ!「復帰」という時代の大転換の荒波の中、様々なジャンルで沖縄のために奮闘した「強者(チューバー)」たちの熱い物語を、沖縄テレビが記録したアーカイブ映像や、証言をもとにしたドラマで振り返る!
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