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OTV報道部

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東京と沖縄で開かれた本土復帰式典 2つの式典から復帰を考える

2022年5月15日、沖縄は本土復帰から半世紀の節目を迎えた。OKITIVEでは復帰企画第2弾として5月15日に沖縄テレビで放送した特別番組「復帰50年未来へ」をテキスト化して随時公開していきます。
今回は「東京と沖縄で開かれた本土復帰式典 2つの式典から復帰を考える」です。

1972年5月15日、政府主催の本土復帰式典が東京と沖縄で開かれた。沖縄の本土復帰に政府が尽力したことを示すため、二つの会場は同じような飾りつけがなされたという。

そして、東京での式典では27年にも及ぶアメリカの統治下から、沖縄が祖国に還った事を日本全体が歓迎するさまが全世界へアピールされた。

しかし、そこには沖縄を代表する屋良知事の姿はなかった。

元屋良主席専属秘書 故・大城盛三
「趣旨が違うんです。アメリカの統治だった沖縄が日本国になったという喜びで式典をやっている」

こう証言する大城盛三は、屋良朝苗が主席となった1968年から退任する1976年まで専属秘書を務めていた。

大城さんはあの日、屋良さんが出席を拒んだ理由を鮮明に覚えていた。

元屋良主席専属秘書 故・大城盛三
「(屋良さんは)まず基地問題を解決しなくちゃならないというのが第1番目だったですよね。それがされていませんから、沖縄は不満ですよと言いたいというのが根っこなんですよ。だから(屋良さんは)『僕は参加しない』ということになって、内地には行かなかった」

東京会場で沖縄の若者代表として挨拶にたった青年がいる。

式典で青年代表挨拶を務めた 具志幸助
「声が若いね。髪も短いし、やっぱ今とは違うな。若いね」

こう話すのは挨拶にたった具志孝助さん当時27歳だった。

式典で青年代表挨拶を務めた 具志幸助
「アメリカの政府代表でアグニュー副大統領、しっかり名前も覚えています。佐藤総理がいてすごい面々が座っているじゃないですか、大変な経験をさせてもらったなと。帰ってきてから一躍『時の人』になりましたよ」

沖縄から来た青年が何を発言するのか注目されるなか…

式典で青年代表挨拶を務めた 具志幸助
「私たちにとって、この度の返還協定の内容は必ずしも満足しうるものではございません」

式典で青年代表挨拶を務めた 具志幸助
「いよいよ復帰が具体化したときにこの内容が納得いかないと、基地の返還はスケジュールは全然示されていないじゃないかと、にわかに反対運動が起きる」

式典で青年代表挨拶を務めた 具志幸助
「こんな内容では我々は復帰反対だということになって、復帰前になってまた保守と革新が(復帰の在り方をめぐり)盛り上がってくる闘争というのがそういうのが嫌でしたね。そういう中での式典でしたから私も挨拶のなかでは日本国、憲法の下にもどるというのは大変ありがたいことではあるが内容は納得していないよと。ここは強調しないといけないなと」

政府主催の式典会場となった那覇市民会館ではその日の午後、県が復帰に対する思いを県民に伝えるための「沖縄県発足式典」が開かれた。

県の式典に県民が参加してくれるのか…
幕が開くまで屋良さんは気が気でなかったと大城さんはいう。

元屋良主席専属秘書 故・大城盛三
「雨降りでしたけど、公園で復帰反対抗議大会をやってるわけですよ。本当に県が主催する会に参加してくれるのかしないのか、不安もありました」

沖縄テレビ元記者 津嘉山珍勝
「ここら一帯が大きな広場だったですよ。運動場みたいね」

抗議集会を取材していた元沖縄テレビの記者、津嘉山珍勝。

沖縄テレビ元記者 津嘉山珍勝
「3000人から5000人集まっています。あいにくの雨でみんなずぶ濡れになって核ぬき本土なみは許さないぞとか、沖縄にはまだ核があるんじゃないかとかいろんな声が聞こえましたね。異様な雰囲気なんですよ。怒っていることは確かなんだけど、何に怒っていいのかわからないというちょっと異様でしたね」

会場の外の喧騒と打って変わって県主催の発足式典はかぎやで風で幕を開けた。

日米の間に置かれ、基地のない平和な島を求める切実な声は届いていたのか。屋良知事は式辞でこう述べている。

屋良朝苗知事
「米軍基地の態様の問題を初め内蔵するいろいろの問題が存在し、これらを持ち込んでの復帰になったわけであります。したがって、私どもにとってこれからもまた厳しさは続き、新しい困難に直面するかもしれません」

復帰から50年経ても、アメリカ軍基地の存在に翻弄される沖縄。

大城盛三
「基地問題が解決しない限り、『復帰は終わらない』というのが屋良さんの考え方なんですよ。だから復帰は続いているという考え方なんです」

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