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OTV報道部

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“ウクライナのために何ができるか” 沖縄戦の体験者と若者たちの思い

戦世から77年。ロシアによるウクライナへの軍事侵攻が続く中、沖縄戦の体験者や若者がウクライナのために何が出来るかを考え、支援に乗り出している。それぞれの活動を取材した。

「ただ見ておくだけではいかない」「何かうごかないといけない」

読谷村の喜友名昇さん(82歳)と妻のヨシ子さん(78歳)。

2人は2022年3月から、座喜味城跡近くにある沖縄戦の戦火を免れた古民家「島まるみぬ瓦屋」でウクライナ支援のための募金活動を始めた。

喜友名昇さん(82歳)
「沖縄戦を経験した我々にとっては(ウクライナ侵攻は)対岸の火事ではないんですよ、まさに沖縄戦そのものなんですよ。これをただ見ておくだけではいかんだろうと何か動かんといかんだろうと」

沖縄戦当時5歳だった昇さん、生活に戦争の被害が出始めたのは1944年の10・10空襲からだった。

資料 提供:1フィートの会

喜友名昇さん(82歳)
「あの10・10空襲でうちの家から40メートルぐらい先に爆弾が落ちて、そこで14人亡くなったんですよ。それが私の戦争というものの始まりなんですよね」

1945年4月にアメリカ軍が沖縄本島に上陸して以降は、猛烈な艦砲射撃から逃れるため家族で座喜味周辺の壕に隠れていたという。

喜友名昇さん(82歳)
「恐怖というものは無いな…はっきり言って、これが当たり前だという感覚じゃなかったかなと思うんですよね」

あまり恐怖を感じなかったという昇さんだが、ある光景だけが鮮明に脳裏に焼き付いている。

77年前に感じた無力感が ウクライナ支援活動の原動力に

喜友名昇さん(82歳)
「これが母親です、これが亡くなった妹です、ここは墓地にした溝なんです」

昇さんが絵に残していたのは、栄養失調のため捕虜収容所で亡くなった生まれたばかりの妹を母親が埋葬するところだ。

喜友名昇さんの描いた絵

喜友名昇さん(82歳)
「悲しむぐらいの力もないんです、落ち込んでね」

――妹に何もできなかったと?

喜友名昇さん(82歳)
「そうですね、何もしてやれなかったと、もしあの時ミルク1本の支援があれば(妹は)助かったんじゃないかなと漠然とそういう想いはあります」

77年前に感じた無力感が、今のウクライナへの支援活動の原動力となっている。

喜友名昇さん(82歳)
「いま生きているから、その想いを別の人にはさせたくないという想いが、今回の活動に繋がっているんです」

「ウクライナに愛」妻のヨシ子さんが書いた大きな看板の横にある募金箱には2022年5月までに30万円が集まり日本赤十字社を通して送った。

ヨシ子さん(78歳)
「人生最後の働きしようかなと思って」

喜友名昇さん(82歳)
「社会貢献ですよ」

喜友名昇さん(82歳)
「この場所を通る時に、平和を考えるちょっとでもいいからきっかけの場所にしたい。戦争のない世の中を作る、これこそ平和の原点です」

沖縄戦体験者の祖母とウクライナ避難民の姿が重なった

ウクライナ避難民の支援のため学生ボランティアとして、2022年6月隣国ポーランドに出発する若者がいる。

浦添市出身で青山学院大学2年の知念大虹さんだ。

知念大虹さん
「出来る限りコミュニケーションをとって、少しでも安心して頂ける心のサポートをしていきたいと考えています」

知念さんがボランティアに参加したきっかけは、沖縄戦で右目を失明した祖母のマツさんとニュース映像で観たウクライナ避難民の姿が重なったことだった。

知念大虹さん
「(ウクライナで)砲撃の影響で目を怪我してしまった方がいまして、祖母とテレビに映った避難民の方が同じに見えたんですよ、そこから無力感に苛まれて何ができるんだとずっと考えていた」

マツさんは2017年に亡くなったが、生前失明による不自由や差別などに苦しんだという。

知念大虹さん
「(ウクライナで目を負傷した)女性が今後ももしかしたら祖母の苦しかった事を、またそういった想いをして生きていくのかなと考えると、どうしてもいたたまれなかったというか」

ウクライナで見たことを記録して同世代にも伝えていきたい

いつの時代も力をもたない民間人が犠牲になる戦争。知念さんは2022年6月13日から始まる約2週間の支援活動ではウクライナ避難民の気持ちに寄添い、そこでの経験を戦争を知らない同世代にも伝えていきたいとしている。

知念大虹さん
「極限状態にある人達がいかに頑張って笑おうとするのだとか、生きようとするのか、その様子を出来る限り記録を残して、日本に戻ってきてそれを話したいと思っています」

喜友名さん夫婦の取組みは広がりをみせていて、読谷村役場でも募金が置かれている

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