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OTV報道部

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復帰を目前に起きたドル・ショック

2022年5月15日、沖縄は本土復帰から半世紀の節目を迎えた。OKITIVEでは復帰企画第2弾として5月15日に沖縄テレビで放送した特別番組「復帰50年未来へ」をテキスト化して随時公開していきます。
今回は「復帰を目前に起きたドル・ショック」です。

沖縄の本土復帰前の市場の様子だ。商品の値札はドルで表示され、買い物でも給料として支払われたのも「ドル」だった。復帰が1972年に決まり通貨もドルから円に切り替わることが決まっていた。

復帰を目前に控えた1971年8月。世界中を騒然とさせたのが、ドル・ショック、またはニクソン・ショックと呼ばれるアメリカのドル防衛策だ。これにより1ドル 360円の固定相場が崩れ、ドルの価値が急落。年末には308円となった。生活物資の約8割を日本本土からの輸入に頼る沖縄を直撃した。

すぐさまドルショックの対応に乗り出したのが当時、琉球政府の副主席で、のちに衆議院議員を務めた宮里松正だった。

琉球政府 行政副主席を務めた 故・宮里松正さん
「早い話がお年寄りのへそくりや子どもたちの小遣いまでが、目減りするんですよと。実害が出てくる事なんだ。」

こうした中、宮里副主席に呼び出された金融検査庁主任検査官の與座章健さん。対応策として示されたのが「通貨確認」だった。「ある一定の時点で沖縄の人々が保有するドルを確認し、復帰の際、1ドル360円から下がった分を日本政府が補償する」というもの。

金融検査庁主任検査官を務めた與座章健さん
「これが事前にばれてしまうと。県民以外の非琉球人の金が入ってきてめちゃくちゃになってしまう。これが問題だったわけよね」

極秘作戦の決行に深くかかわった人物が山中貞則さん。沖縄問題に関する全権を佐藤総理に任され、ドルショックが及ぼす沖縄への影響を理解していた山中は、琉球政府の宮里副主席と水面下で協議を重ね「通貨確認」によって日本政府が補償することを約束した。

しかし、前例のない対応に難色を示す大蔵大臣。沖縄の人々の資産を守るため山中さんは一歩も引かなかった。

元衆議院議員初代沖縄開発庁長官 山中貞則さん
「『君、通貨は大蔵大臣の専管事項だよ。』『何言ってんの俺は沖縄の問題についてはね大蔵大臣の権限なんか全部総理から委任されているからこれは自分で実行すると。』そしたらね、人間捨て台詞っていうのはあまり簡単に言っちゃいけない。『勝手にしろ』って言ったんですよね。それで『勝手にする』といってから電光石火始めた」

沖縄の人々のドル資産を確かめるXデーは、1971年10月9日に決定。この時点で、法的な裏付けなど準備にかけられる日数は10日を切っていた。

極秘作戦の特命を受けた與座章健さんはメンバーの加勢を求めたが…

金融検査庁主任検査官を務めた與座章健さん
「宮里副主席は待て待て、與座君まだ早い。ずっと待たされてさ。結局ね3日ぐらいしか無かったよ」

與座さんに引き抜かれる形でアパートの一室にひそかに集められた金融検査庁のメンバーたち。情報漏洩を徹底して防ぐため家に帰ることも許されず寝食を忘れ準備に追われた。

1971年10月8日、琉球政府は突如、離島を含めた全ての金融機関の窓口を閉鎖、沖縄の人々に手持ちのドルを提示するよう通達した。

ついに迎えたXデーの10月9日。資産が守られることを知った人々は金融機関に殺到し、それこそ、へそくりから小遣いまで所有するドルを全て確認させたのだ。

電撃的な対応に寝耳に水だったのは、アメリカ民政府の最高権力者ランパート高等弁務官も同様で、怒り心頭、屋良主席を呼び出した。

琉球政府行政副主席を務めた 故・宮里松正さん
「『今度の通貨に関することは、私の権限を侵して勝手なことをした。一体これどうしてくれるのかと』屋良さんはすかさず『これは宮里副主席と、山中総理府長官が2人の間で決定したことだと。私は昨日の晩まで知らなかったと。その報告を受けるまで、知らないのにしょうがないじゃないか』と、その場を繕ったというんだと。」

1972年5月15日、沖縄が本土に復帰した時、ドルと円の交換比率は1ドル305円。55円の差額はすべて日本政府が補償し、通貨確認の成功で守られた沖縄の人々の資産の総額は294億円に上った。

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