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OTV報道部

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復帰間近に県民を震撼させた毒ガス移送とコザ騒動

2022年5月15日、沖縄は本土復帰から半世紀の節目を迎えた。
OKITIVEでは復帰企画第2弾として5月15日に沖縄テレビで放送した特別番組「復帰50年未来へ」をテキスト化して随時公開していきます。
今回は県民を震撼させた毒ガス移送と住民の怒りが爆発したコザ騒動です。

復帰が目前となるなかで、1969年にある問題が明るみとなり県民を震撼させた。

それは…

1969年、嘉手納基地・知花弾薬庫で毒ガスが漏れた事故をアメリカの新聞が報じた。

これにより、約1万3000トンの毒ガスが沖縄に貯蔵されていることが明るみとなり、住民の怒りは爆発し各地で即時撤去を求める抗議大会が開かれた。

アメリカ軍は毒ガスを撤去すると発表したが、本国でも受け入れ先がなかなか決まらず、ようやく移送が開始されたのは1971年で、1月と7月から9月の2回にわけて実施された。

2次移送は56日間にもおよび、周辺住民はその間に避難を余儀なくされ、すべての毒ガスが撤去されたのは発覚からおよそ2年後だった。

現場で中継した島袋秀光さんは、キャスター人生の中でも特に記憶に残っていると振り返る。

沖縄テレビ元キャスター 島袋秀光
「トレーラーが上がってくるときに途中でギアチェンジして、ダダダンって聞こえた時に、喋っている僕は一瞬、黙ってしまった。大変な恐怖ですよね。付近の住民は全員が避難していました。一番印象に残っているのは最後のトレーラーが桟橋に行った後に、屋良さんが塩をまいたんですよ。あれは未だにね…あんな状態だったんですよ沖縄は。いかに苦労してきたか。毒ガス移送だけじゃないんですけどね」

本土復帰に向けて「毒ガス移送」とともに、人々の記憶に大きな衝撃として刻まれているのが、「コザ騒動」

コザ騒動

1970年、12月20日未明、現在の沖縄市でアメリカ兵が運転する車が引き起こした人身事故をめぐり、駆け付けた憲兵隊と事故を目撃していた沖縄の人々の小競り合いに発展。その後、憲兵隊の威嚇発砲が群衆の怒りに火をつけ、80台あまりの外国人車両を焼き討ちする事態に発展した。

当時のラジオ沖縄の音声
「事故を起こした加害者はアメリカ人が逃げようとしたところ、MPがね車にピストル10発以上発射して、やがて沖縄人は死んだかもしれない。沖縄はどうしたらいいのか。沖縄人は人間じゃないのかバカヤロー」

現場に駆け付けて無我夢中で撮影したのが当時、沖縄テレビの記者だった津嘉山珍勝。

沖縄テレビ元記者 津嘉山珍勝
「車を降りて、坂をずっと走っていきました。米兵が催涙ガスをまいているので、涙がとてもぽろぽろしたのは覚えています。車が倒れた瞬間に火がぱっとつくんです。みんなが手をたたいて喜んでいるんです。異常な雰囲気ですね。僕もウチナーンチュですから、カメラマンということを忘れてカメラを置いて、やってみようかなと。一瞬そういう気持ちになりましたね」

アメリカ施政権下の中、踏みにじられてきた人権。コザ騒動では80人余りが事件送致されたが、地域の平和を乱す意思はなかったとしてその多くが不起訴となった。

沖縄テレビ元記者 津嘉山珍勝
「アメリカ軍当事者にとっても、もともと27年間沖縄を統治したけれども、暴動とか一回もなかったでしょ。ところがコザ暴動みたいに物理的なことに遭遇することは予想もつかないと思うので、一番びっくりしたのはアメリカでしょう。それから当時の日本政府もおそらく復帰は早めないといけないと、余計わかったんじゃないですかね。このままでは大変になると」

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