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OTV報道部

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大蔵相に「勝手にする」…唯一の沖縄県名誉県民・山中貞則氏 生涯沖縄に尽くした政治信条の原点とは

沖縄に生涯を捧げた政治家と言われる山中貞則氏。沖縄の本土復帰に向けて数々の難題を一手に引き受け、その後の振興発展にも心血を注いだ。沖縄県の名誉県民にただ一人、選ばれている山中氏と沖縄の関わりを振り返る。

「この瞬間をどれだけ苦労して待ったか」

初代沖縄開発庁長官 故・山中貞則氏
「午前0時をもって、沖縄は本土に復帰した。汽笛と鐘の音が、鐘楼の鐘が、ゴーンとなり出した時、この瞬間をどれだけ苦労して待ったかという気持ちが胸にこみ上げてきて、涙が流れたんですよね」

生前、沖縄が本土に復帰した当日の思い出についてこのように語っていた政治家・山中貞則氏。1970年、佐藤内閣の本土復帰事業に携わり、総理府総務長官として、今も続く、「沖縄振興」や「特別税制」の礎を築いてきた。

台湾の師範学校出身の山中氏は、屋良朝苗行政主席を師と仰ぎ、政治的な立場をこえて、「毒ガス輸送」など様々な問題の解決に奔走した。

屋良朝苗日誌より
毒ガス移送のコース建設費、その他必要経費の捻出に非常に頭を痛め、困難を極めたが、またまた長官の強大な政治力を発揮、建設費20万ドルを一般予備費から捻出してもらう事決定。山中大臣でなければ解決できぬ芸当だ

復帰目前に起こった“ドルショック”から県民の資産を守るために

復帰を目前に控えた1971年、「ドルショック」または「ニクソンショック」と呼ばれるアメリカのドル防衛策が世界中を震撼させた。この政策により1ドル=360円の固定相場が崩れ、ドルの価値が急落、年末には308円になった。

当時の佐藤内閣で沖縄問題を全権委任されていた山中氏は沖縄の人の資産が減らないよう、差額分を日本政府が補償する秘策を水面下で練り上げたのだった。

初代沖縄開発庁長官 故・山中貞則氏
「(大蔵大臣が)『君、通貨は大蔵大臣の専管事項だ。差口を言うな』と、何を言っているんだ、俺は沖縄の問題については大蔵大臣の権限を全部総理から委任されているんだと、これは実行すると、人間捨て台詞というのは簡単に言っちゃいかん、(大蔵大臣が)『勝手にしろ』って言うから、『勝手にする』と言ってから電光石火で始まった」

復帰に伴う「ドル」から「円」の通貨交換時、1ドル=305円になっていたが、差額分55円を日本政府が負担する事になり沖縄の人々の資産は守られた。

「ヤマトの人間であり、島津の人間である私は二重の責め苦をはじめから背負っている」

記者
「これほどまでに情熱をかけてやるというのは、どこから来るのですか?」

初代沖縄開発庁長官 故・山中貞則氏
「もちろん原点は琉球王朝に侵略した島津藩でしょう。沖縄の人の心の底には反ヤマト、なかんずく反島津、という底流があるわけです。そのヤマトの人間であり、島津の人間である私が復帰の担当するわけだから、二重の、責め苦をはじめから背負っていかなければならない」

2022年8月15日、生まれ故郷の鹿児島で行われた山中氏の生誕100年祭。沖縄からは稲嶺恵一元県知事をはじめ、政財界から多くの関係者が出席した。

元沖縄県知事 稲嶺恵一氏
「沖縄は、戦争で、大変苦労をした。特に離島の皆さんはさらに『離島苦』を味わっている。弱き人に対しては、自分のもっておられる全力を尽くして、法律の改正も含めた形で、あらゆる面から面倒を見て頂きました」

ふるさと鹿児島でも語っていた沖縄への想い「今の日本国土があるのは、沖縄県民のおかげ」

鹿児島市内から車で約1時間30分の大隅半島に位置する曽於市(そおし)。田園風景が広がるのどかな地域。ここが山中氏の故郷だ。

山中貞則顕彰会 池田孝 理事長
「厳しい先生でしたから、もうどんな偉い人でもちょっと違った事を言うと、『何』ってパッと向かっていく姿の先生でした」

故郷・鹿児島でも山中氏は、先の大戦で住民を巻き込む激しい地上戦が行われ、その後もアメリカの施政権下に置かれた沖縄の犠牲の上に日本の発展があるとして、常に沖縄への思いを口にしていた。

山中貞則顕彰会 池田孝 理事長
「沖縄県に対しては、国の施策で、どんなことをしてもやってあげて、それをやりすぎたという事はありえないと今の日本国土があるのは、沖縄県民のおかげだとそれに感謝する気持ちで努力しなければならない(と言っていました)」

沖縄本島からフェリーで約1時間30分にある離島、伊平屋島。この島にも、山中貞則の足跡が残っている。現在は伊平屋島と橋でつながる野甫島。かつて住民は島の往来に苦労し、離島苦「島ちゃび」の悲哀を味わっていた。

初代沖縄開発庁長官 故・山中貞則氏
「本土の政府に言いたいことは何でも、陳情はしないでいいです。要求して下さい。私はこの場でできるかできないか返事します。その権限は持ってきていますから」

復帰から7年後の1979年、島の悲願であった、野甫大橋が開通した。

伊平屋村元助役 与那嶺毅氏
「離島苦解消には非常にお力を入れて頂いたと感謝しています」

島ちゃびに耐えし老婆の入れ墨の手を取りいつかともに踊りき

書籍「顧みて悔いなし」より

すべての有人離島を視察した後、山中氏が詠んだ歌。野甫大橋の落成式典で歓喜の渦の中心に山中氏の姿があった。

その後、山中氏への感謝を込めて、役場前には島の有志が作成した胸像が設置された。

1992年の首里城の復元など、復帰以降も沖縄に関わり続けた山中氏。「保守」、「革新」という政治的対立が顕著だった沖縄で、保革の枠を超えて県議会の全会一致の同意を得て名誉県民の称号を贈られたのは、山中氏をおいて他にいない。

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