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長嶺 真輝

長嶺 真輝

44年間で最も経済効果の大きい年は… 沖縄プロ野球キャンプ発祥の地、名護市と日本ハムの歴史

沖縄の春季プロ野球(NPB)キャンプ発祥の地、名護市。北海道日本ハムファイターズが他球団に先駆け、沖縄の本土復帰から7年後の1979年に旧名護市営球場で投手陣がキャンプを張ったことが、全ての始まりだった。

2月は、県外だとまだ雪が降るほど寒い。気温が低いと筋肉が硬直してケガをしやすいが、国内唯一の亜熱帯地域である沖縄は暖かくて体づくりに適しているとされる。そんな好環境が評判を呼び、日本ハムに続いて他球団も県内でキャンプを張るように。チームが集まると沖縄で練習試合もできるようになり、それを魅力に感じた他球団がまたやって来るという好循環が生まれた。現在ではNPB12球団中9球団が沖縄で実施し、日本最大の”キャンプ銀座”と呼ばれるまでに発展を遂げた。

「始まりの場所」である名護市のキャンプの歴史は実に44年に上る。半世紀近い時の流れの中で大きな経済効果が生まれた年や、キャンプ存続の”危機”など様々な出来事があった。日本ハムの大ファンを自認し、FMやんばるの社長や名護ファンクラブ後援会副会長、名護協力会運営委員を務める「名護のBIG BOSS(ビッグボス)」こと新城拓馬さん(37歳、しんじょう・たくま)=パーソナリテイ名「ジョバンニ」=と共に歴史を振り返る。

沖縄プロ野球キャンプ発祥の地

今だから言える誘致の”裏話”も…

外野スタンドの向こう側に広がる名護湾を望む市宮里のタピックスタジアム名護。
その入口付近に、口元をきゅっと結び、眼鏡の奥の視線を名護の市街地に向ける男性の銅像が建っている。
日本ハムの創業者である故・大社義規(おおこそ・よしのり)氏だ。キャンプスタートから35周年を迎えた2013年、大社氏への感謝を込めて北海道日本ハムファイターズ名護協力会が建立した。

沖縄プロ野球キャンプ発祥の地

像の裏に彫られた文章には、こう記されている。

「当時完成したばかりの名護球場はプロ野球選手がキャンプに使用できる設備状態ではないにもかかわらず、昭和54年(1979年)に大沢監督以下コーチ陣、投手陣および球団関係者13名が来場、翌年の昭和55年(1980年)にも主力投手陣による練習を実施し候補地であった宮崎県日向市との検討の結果、氏のご英断により春季キャンプ地を当時日本ハム発祥の地である徳島県鳴門市から名護市で実施することに決定し…」

沖縄プロ野球キャンプ発祥の地

旧名護市営球場の完成は1977年。79年の初キャンプの際は球場脇に投球練習場も設けられ、主力投手6人が3月4〜14日の日程で汗を流した。同年3月8日付けの琉球新報朝刊には、当時の大沢啓仁監督による「もっと球場が整備されればチーム全員が来てもいい」という前向きなコメントが報じられている。

その言葉通り、1981年からは野手も含めた一軍のチームキャンプを開始した。この年、日本ハムは前身の東映フライヤーズが1962年に優勝して以来、19年ぶり2度目のパ・リーグ制覇を達成。その一因が温暖な沖縄でのキャンプにあると見てか、82年には広島東洋カープ、83年には中日ドラゴンズが県内でキャンプを開始するなど各球団が続いた。

正に沖縄がキャンプ地として繁栄するきっかけとなった日本ハムの名護キャンプだが、誘致を巡っての裏話がある。新城さんが明かす。

「ファイターズを誘致する際、球団が名護市に雨が降る日数のデータを出してほしいと言ったそうなんです。この時期の沖縄は結構雨が降るので。そこで市の職員が、チームを呼ぶために少なめに回答したみたいです(笑)。『今だから言えるけど』って前置きして、当時の事を知る先輩方から聞きました。そのおかげで、今は9球団が来てるからいいですよね(笑)」

今では雨の日でもトレーニングが積めるように各球場に室内練習場が整備され、当時に比べて格段に利便性が向上したプロ野球キャンプ。「時効」を迎えた一つの”ウソ”が、離島を含めた沖縄全土を巻き込む繁栄を生むとは、当時の市職員も全く予想していなかったに違いない。

「折れたつばにサイン」少年時代の新城さんを魅了した”ガンちゃん”

沖縄プロ野球キャンプ発祥の地

長い年月の中で多くの選手たちが名護の地を踏んできたが、市我部祖河の出身で、少年野球チームに所属する球児だった新城さんに強烈なイメージを植え付けた選手がいた。人気投手で、その明るいキャラクターから”ガンちゃん”の愛称でファンに親しまれた岩本勉さんだ。新城さんが小学校高学年の頃の出来事である。

「当時は野球帽子のつばを曲げ過ぎて、折れちゃってたんですよ。今思えば大変失礼なんですが、岩本選手にその帽子を渡してサインをお願いしたんです。そしたら『オレだからいいけどな、他の選手にやったらダメだぞ』って笑いながらつばにサインをしてくれたんです」

それ以来、日本ハムの追っ掛けになった新城さん。新庄剛志監督や今年から外野守備走塁コーチに就任した森本稀哲さんら名物選手や、大リーグで活躍し、今年3月のワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の日本代表に選出された大谷翔平投手、ダルビッシュ有投手など多様な個性を持つプレーヤーたちに魅了されてきた。昨年から新庄監督が名護市への感謝も込めて花火大会を催したり、球場での「きつねダンス」が流行したりと、「ファイターズはファンを楽しませるアイデアがたくさんある」と魅力を語る。

森本さんと同じく、今年から一軍の投手コーチとしてフロント入りする建山義紀さんも現役時代、1勝につき1万円を名護市のネオパークオキナワ内にあるヤンバルクイナ保護施設に寄付するなど、球団や選手は地域との繋がりを大事にしてきた。

”ハンカチ王子”で経済効果15億円!過去最大の規模

長らく「素通り観光」などの課題が指摘される名護市にとって、球団が地域にもたらす経済効果も計り知れない。選手やコーチ陣など球団関係者や県内外のファン、報道関係者らがキャンプ時期に市を訪れ、宿泊や飲食などでお金を消費する。

昨年のビッグボスフィーバーは記憶に新しいが、残念ながらコロナ禍による制限で来場客は限定的だった。これまでに多くのスター選手を輩出してきた日本ハムだが、ある1人の選手の存在によって圧倒的な経済効果を生み出した年がある。
今や大リーグのスター選手である大谷投手やダルビッシュ投手ではない。新城さんが説明する。

「斎藤佑樹選手です。ハンカチ王子のフィーバーがそのまま名護にやって来て、ルーキーイヤーはものすごい賑わいとなりました。ビッグボスや大谷選手よりも上で、その年の経済効果がずば抜けて大きかったと言われています」

実際、当時の新聞記事を見ると、2011年2月1日のキャンプ初日には、2006年の夏の甲子園を沸かせたルーキーシーズンの斎藤選手(当時)を一目見ようと800人のファンと400人の報道陣が名護市営球場に殺到。
ハンカチ王子にちなんで作製された特製ハンカチも飛ぶように売れたという。
キャンプイン前には、斎藤選手が沖縄や名護市に与える経済効果が約15億5千万円にも上るとの試算が関西大学大学院の教授によって発表されるなど、そのフィーバーぶりは沖縄キャンプ史の中でも指折りの規模だった。

ヤキモキしたアリゾナキャンプを経て…

選手と地域のほかにも、本拠地北海道と沖縄のファンが交流したりするなど、キャンプを通して様々な波及効果を生み出してきた日本ハムキャンプだが、一度存続が不安視されたことがある。1990年代から球場の老朽化が指摘されてきたが、なかなか改修のめどが立たず、球団は2015年に翌16年から名護キャンプの期間短縮を決定。1次キャンプの場所を米アリゾナ州に移した。

当時、このまま日本ハムが名護から撤退するのではないかという噂が流れ、地元は不安に陥った。そこで行動に出たのが、新城さんだ。取材で事実を明らかにするため、3日間の日程で北海道へ向かった。

「現地であった球団との交流会に潜り込ませてもらったら、当時の球団社長が『米国に行くのは(国内の)他の地域と関係が深くなるとそこを離れにくくなるからです。絶対に名護に戻ってきます』と言ってくれたんです。それで名護に戻ってきてくれることを確信しました」

当時の本拠地だった札幌ドームの前で「名護から撤退するかもしれないという話があるけど、どう思いますか?」というアンケートも現地ファンに実施。256人から回答を得た。「今でも保管してますけど、毎年北海道から名護に来てる人や、名護にいる知り合いを紹介してくれる人もいました。心のつながりを感じました」と振り返る。

球団は2016年、創設以来3度目となる日本一に輝いた。翌17年、新城さんは旧名護市営球場のスコアボード上にチャンピオンフラッグが掲げられている光景が今でも脳裏に焼き付いている。「昔は老朽化の影響で選手がケガをしたりして、『最悪の球場』と呼ばれていたんです。それでも最後の最後、名護球場の有終の美を飾るようにチャンピオンフラッグがなびいていました。今までで一番、ファイターズのファンをやっていて良かったと思った瞬間です。最高の光景でしたね」

球場の改修を経て、日本ハムは2020年から再びキャンプの全日程を名護市で行うようになり、現在に至っている。

悲喜交々のエピソードと共に歴史を積み重ねてきた日本ハムの名護キャンプ。タピックスタジアム名護には歴代選手の写真、サイン、実際に使用した野球用具なども展示されている。44年間の歩みに思いを馳せながら、現役選手たちの練習を眺めるのも一興かもしれない。

沖縄プロ野球キャンプ発祥の地
沖縄プロ野球キャンプ発祥の地

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