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南米で「めんそーれ、オキナワ」【Vamos a OKINAWA!】(#4ボリビア・コロニアオキナワ篇)
「第7回世界若者ウチナーンチュ大会」を通して出会った、沖縄出身でペルー留学中のみーゆ(銘苅実祐)、ウルグアイ留学が終了したばかりのずっきー(鈴木礼)、カナダに留学中のロジーニャ(與崎夢乃)、ブラジルのカンポグランデ出身で沖縄県系3世のジュリ(大城ジュリアネ)の現役大学生4人による、世界の「オキナワ」を探す旅”Vamos a OKINAWA!
目次
南米に「オキナワ」がある!?
3つめの目的地はボリビア・サンタクルスにあるコロニアオキナワです。
自然に抱かれたサンタクルスという街の中心部から車を走らせること2時間半。畑が広がる道の途中で、突如「めんそーれ オキナワへ」の門が!
そう、ここは南米にあるもう一つのオキナワ、「コロニアオキナワ」。コロニアオキナワという名前は、行政区として登録されている名前だそう。(以下、オキナワ村)
そんなオキナワ村は、人口約900人の沖縄県系人と12,000人のボリビア人が住んでおり、第1居住地と第2居住地、そして第3居住地の3つの居住地で構成されています。
JICAの協力により、昨年末には、第1居住地と第2居住地を結ぶ19㎞のコンクリート製の道路が開通しました。この1本以外の道路は、土の道路で毎日の整備が欠かせないそうです。
オキナワ村は、学校や文化会館、歴史資料館もあります。学校には、沖縄県からの派遣教師が来て、午前中はスペイン語の授業、午後は日本語の授業があるそうです。
現地の沖縄県系3世のまーいーに村を案内してもらいました。
まーいーは「学校で三線を習って、みんな弾けるのが当たり前だったから、沖縄に初めて行ったとき、三線を弾けない人が多くてびっくりした」と言っていました。わたしも、三線弾けない…!とドキッとしました。
村内のコンビニには、現地のウチナーンチュが販売する、サーターアンダギーやかりんとう、島豆腐などもあります。
すると、案内人のまーいーが「これは○○さんが作ったもの!」と、教えてくれました。広い村ですが、古き良き沖縄のような温かいアットホームなコミュニティが残っていることを感じ取ることができました。
ゼロから始めた、命がけの村づくり
歴史資料館では、オキナワ村入植の歴史と当時の生活の様子について、お話を伺いました。70年前、密林だったこの場所を、沖縄から移民としてやってきたウチナーンチュたちがゼロから切り開き、現在のオキナワ村ができたそうです。
現在のオキナワ村ができるまでに、ウチナーンチュたちは厳しい大自然の中で、自分たちの生活を築いていきました。途中には、ネズミからくる病気「うるま病」が流行し、多くの死者も出たそうです。歴史資料館では、当時のカルテや医療器具、生活用品、密林を切り開いていた時の写真など、酷な生活状況とウチナーンチュたちの苦労を学ぶことができました。
OKINAWA to 沖縄
ボリビア沖縄県人会会長の比嘉さんが約900haの畑を車に乗って案内してくれました。
大豆、小麦、米、サトウキビ、とうもろこしを育てているのですが、その農法にはたくさんの工夫が!リオグランデ川の増水に備える仕組みや、アメリカの大規模農業のように大きな機械を使って広大な畑を管理する様子など、今のオキナワ村の農業の工夫を見ることができました。
また、比嘉さんは、2021年に始動した「OKINAWA to 沖縄プロジェクト」の今後にも期待を募らせます。
「OKINAWA to 沖縄プロジェクト」はオキナワ村で栽培・加工された作物を沖縄県に輸出することで、双方向の経済交流を目指すプロジェクトです。
大幅なコストカットが可能になり、まさにWinWinなビジネスネットワークができるのです。
沖縄で食べる島豆腐の大豆が、オキナワ村のかいとたちが作ったものだったら…そう思うと、消費者になる私たちもワクワクしちゃうプロジェクトです!
南米にも息づくイチャリバチョーデー精神
コロニアオキナワでは、スペイン語よりも日本語が多く使われ、沖縄の文化の中で子供たちが育っている・・・。まるで沖縄に帰ってきたような感覚でした。
「オキナワ」といえば「いちゃりばちょーでー」の文化です。初対面の私を、まるで幼なじみのように歓迎してくれ、素敵な絆を築くことができました。一緒に食事を楽しんだ後に、満天の星空を眺め、笑いあったことはつまでも色あせることのない思い出です。
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