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OKITIVE編集部

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故郷への思いを紡いで100年~川崎沖縄県人会~

県人会の旗はウチナーンチュの心の拠り所の一つだった 提供:川崎沖縄県人会

生きるため、家族を養うため、明治から大正にかけて沖縄から「移民」として海を渡ったウチナーンチュ。
新天地でウチナーンチュたちは互いを助け合うため、徐々にコミュニティを形成。中には「県人会」組織が誕生した地域もあった。
県人会の中でも古い歴史をもつのが、1924年(大正13年)に設立された「川崎沖縄県人会」だ。来年で創立100年を迎えることからOKITIVE取材班が県人会の関係者に話を聞いてみた。

川崎沖縄県人会
川崎沖縄県人会会長 金城宏淳さん

「大正時代に神奈川県には「紡績業」が盛んで沖縄からも多くの働き手が集まるようになった。その後も「京浜臨海工業地帯」の発展に伴い、親戚や地域の先輩達を頼って、多くのウチナーンチュがやってきました。」

こう話すのは川崎沖縄県人会の会長を務める金城宏淳さん。
金城さん自身は川崎で生まれ育った「沖縄2世」だが、若いころから県人会活動に参加していたそうだ。金城さんに川崎県人会に残っている貴重な写真を見せてもらった。中でも特に印象的だったのが、沖縄から集団就職でやってきた若者たちを激励する会の写真だ。

沖縄から集団就職でやってきた若者たちを県人会のメンバーが激励 提供:川崎沖縄県人会
県人会の青年部を代表して金城さんも三線を披露した(左から二人目) 提供:川崎沖縄県人会

川崎沖縄県人会 会長 金城宏淳さん
「子供のころから、お祝いごとに三線は欠かせなかったので、自分たちのような『2世』も自然と練習した。「1世」の人たちは故郷への思い入れが特にあったから、集団就職でやってきた若者は身内同然に激励した」

川崎沖縄県人会の歴史を振り返る金城会長

しかし、時代は移り変わる。暮らしが豊かになり、子孫の時代となると県人会活動への関心も薄くなってきたという。川崎沖縄県人会も時代に合った組織運営を迫られてきたようだ。

「借金で首が回らなくなった県人会の収支管理を徹底的に見直しました。
県人会が出資した『オリオンスターマンション』の家賃収入を運営費に充てる等、収支を好転させました。」

川崎沖縄県人会の名誉会長 比嘉孝さん

こう話すのは2011年から~2021年までおよそ10年間、川崎沖縄県人会の会長を務めた比嘉孝名誉会長だ。川崎育ちの沖縄2世で、中学卒業後、鉄筋工や造船業に携わり独立。「京浜スチール工業」の会長として、川崎の経済界でも名を轟かせている。

京浜スチール工業   
ロボットを導入するなど工場は活気にあふれる

川崎沖縄県人会 比嘉孝 名誉会長
「若いころは自分の家族や、会社、従業員を守る事に一生懸命。うちなーぐちも話すことができないし、会長職を務めるまで『沖縄』を意識する機会は少なかった。」

会長時代、比嘉孝さんは企業を経営するかたわら、「世界のウチナーンチュ大会」などに参加するなど積極的に活動した。さらにウチナーンチュじゃなくても、沖縄好きであれば誰でも県人会活動に参加できるよう、若いチカラを取り込むための礎を築いた。比嘉さんのエネルギッシュな功績をたたえ、2022年には沖縄県から功労者賞を贈られている。

JR川崎駅前にある「石敢當」の碑は沖縄と川崎の「絆」

沖縄と川崎の関係を示す「石敢當」の碑が川崎駅に設置されているのはご存じだろうか。きっかけは1959年宮古島を襲った台風だ。甚大な被害に心をいためた川崎市民の義援金の返礼として宮古島から贈られたものだ。
1970年にJR川崎駅東口に設置され、半世紀たった2020年には沖縄と川崎の絆に思いを馳せようと記念セレモニーが開かれている。
こうした歴史も忘れてはならない。

おなじみの童謡の工工四

「女弦(ミーヂル)をきちんと押さえて!」

夕刻、川崎沖縄県人会では三線の音色が響く。子どもたちを指導するのは現会長の金城宏淳さん、「かえるの合唱」や「ちょうちょ」など、おなじみの童謡が三線のメロディーで紡がれる。

子ども向けの三線教室      
川崎沖縄県人会 会長 金城宏淳さん

川崎沖縄県人会 会長 金城宏淳さん
「沖縄3世、4世になると、なかなか県人会活動への関心が薄くなっているが、三線や舞踊など芸能にふれることで、沖縄へのアイデンティティが芽生える人もいる。来年迎える100週年に向けて若い人たちと、盛り上げていきたい」

歴代の会長の写真に見守られながら

来年創立100年を迎える川崎沖縄県人会。1世、2世、3世、それぞれ世代が見てきた景色や考えは異なるが、ウチナーンチュコミュニティが紡いできた歴史を見つめていきたい。

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