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「亡くなった子どもたちが語れと」対馬丸の語り部を続けてきた平良啓子さん 生涯背負った生きる使命

太平洋戦争末期の学童疎開船・対馬丸(つしままる)の沈没から2023年8月22日で79年。

およそ1500人が犠牲となった悲劇を生き延び、自身の体験を語り続けてきた平良啓子さんが2023年7月に亡くなった。

対馬丸の記憶とともに歩み、平和のために力を尽くした平良さんの生き様を振り返る。

「こういうことが二度と起こらないように」そのために語り継ぐ

平良啓子さん
「私が生きる意味というのは、生きている私は、みんなの代表で生きているので、こういうことが二度と起こらないように、戦争をしないようにすることです。そのために、私はあちこちで語り継いで訴えています」

戦争を身をもって体験し、その悲惨さや残酷さを伝え続けてきた語り部がまた一人、この世を去った。

平良啓子さん(享年88)。
太平洋戦争末期の1944年、アメリカ軍の魚雷攻撃を受けて沈没した学童疎開船・対馬丸に乗り、生き延びた一人だ。

わかっているだけでも、700人あまりの学童を含む1484人の犠牲が出たといわれている対馬丸事件。

国頭村(くにがみそん)の安波(あは)国民学校4年生だった啓子さんは、6日間にわたりいかだに乗って海を漂流し、その後、奄美大島の人々によって救助された。

しかし、一緒に乗船した兄と祖母、そしていとこの時子さんは帰らぬ人となった。

平良啓子さん
「長いこと生きているのも生かされているのも、(亡くなった)子どもたちが語れ、語れというからです。私は語らなくてはならないから、生きなければならないのです」

「使命感に支えられた人生」

啓子さんは元気に活動していたものの、2023年7月29日、急逝した。
突然の訃報に、生前、深い関わりのあった人々から大変貴重な存在を失ったと悔やむ声があがった。

対馬丸記念会 常任理事 外間邦子さん
「啓子さんを失うということは、対馬丸や、対馬丸で亡くなった子どもたちについて語る人が亡くなるということ。それが一番つらかったです」

自身も対馬丸事件で姉2人を亡くした遺族として、語り部を担ってきた外間邦子さん。
啓子さんの情熱にあふれた姿を見つめてきた。

対馬丸記念会 常任理事 外間邦子さん
「使命感、それがおありでした。そういう使命感に支えられた人生だったと思います」

「平和をつくる教育」を願い、戦後、教師の道に進んだ啓子さん。
次の世代を生きる子どもたちに向けて、平和の大切さを伝えてきた。

対馬丸記念会 常任理事 外間邦子さん
「語りをお願いされると一度も断ったことがないです。県外まで行かれました。対馬丸のためなら、というその思い一筋でした」

「もっともっと語ってほしかった」

啓子さんと同じく対馬丸に乗って生き延びた髙良政勝さん。
髙良さんは一緒に乗船した両親ときょうだい、あわせて家族9人を亡くした。

対馬丸記念会 理事長 髙良政勝さん
「私は(当時)4歳でした。僕自身も体験はしているけれど、覚えていません。ただ自分が生きたという、そういう事実だけがあります」

当時4歳というあまりに幼かった髙良さん。自身が生き残った経緯をほとんど覚えていない。

周囲から聞いた話をもとに、かすかな記憶をたどりながら語り部を続けている。
当時の記憶を鮮明に語れる生存者、その最後の一人が啓子さんだったと話す。

対馬丸記念会 理事長 髙良政勝さん
「何しろ彼女は、本当に対馬丸事件をピンからキリまで知っています。もっともっと語ってほしかったです」

髙良さんは、啓子さんの語りの中で印象に残っているものがある。
生きて一人で故郷に帰ってきた啓子さんが、亡くなったいとこの時子さんの母に言われた言葉だ。

平良啓子さん
「『啓子、あんたは生きて帰ってきたね。うちの時子は太平洋に置いてきたの?』って言われました。このショックは今も心の中に痛みとして持っています。時子は私が殺したと。私は被害者だと思っていたら加害者だったのだと思いました」

対馬丸記念会 理事長 髙良政勝さん
「つらかっただろうなと、思います」

「啓子さんにとっての人生は、“対馬丸とともに歩んだ人生”」

対馬丸に乗って生き延びた人は、わずか200人あまり。
そのほとんどが、悲しみや苦しみから口を開くことはなかった。

語ることが難しい現実の中で、戦後間もなくして積極的に語る道を選んだ啓子さん。

対馬丸記念会 理事長 髙良政勝さん
「戦争の苦しさ、非情さを身に染みて体験し、そして子どもたちに伝えました。まさに平和教育を始めた、パイオニアだと思います」

対馬丸記念会 常任理事 外間邦子さん
「大変つらい体験をなさっているので、『これから未来を生きる子どもたちにこういう思いをさせてはいけない、だから自分は語らないといけない』、ということを常々仰っていました。啓子さんにとっての人生は、対馬丸とともに歩んだ人生なのです」

「命があっての人生」「命を大事にできないものはだめ」

2023年6月、最後のインタビューとなったこの日、啓子さんはこれからを生きる人々に向け、次のようなメッセージを遺した。

平良啓子さん
「命があっての人生です。命を大事にできないものはだめ、まず命優先です。だから生きるために、幸せに生きるためには、元気に健康で病気をしないで、頑張ることがモットーです。頑張れよといいたいです」

啓子さんが遺した証言の数々が、対馬丸記念館に鮮明に記されている。
啓子さんの生の声はもう聞くことはできないが、対馬丸に乗って命を落とした子どもたちの叫びとともに、平和への祈りは絶えることなく継がれていく。

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