公開日
OTV報道部

OTV報道部

沖縄戦の方向性を決定づけた10・10空襲 焦土と化した那覇を記憶する男性が伝えたいこと

1944年、アメリカ軍の空襲によって那覇の9割が焦土と化した、いわゆる10・10空襲。沖縄戦の「始まり」と位置付けられた当時の光景を、今も鮮明に覚えている男性がいる。

全家屋の9割にあたる1万1千戸が消失

古波蔵保隆さん
「靴の裏には鋲(びょう)が打ってあり、それがガチガチとすごく響くんですよ」

那覇市首里に住む古波蔵(こはぐら)保隆(83)さんはアメリカ軍の上陸前の1944年、当時5歳で、家族で首里の金城町に住んでいた。

古波蔵保隆さん
「叔父が『空襲が始まって那覇の上空を飛行機が飛び交っている』と慌てて2階から降りてきて、みんなドタドタと階段を上がったら、ところどころで煙が舞い上がっていたんです」

79年前の1944年10月10日、アメリカ軍は那覇をはじめ、各地で大規模な空襲を行った。

当時の那覇は、那覇・首里・真和志・小禄と大きく4つに分けられていて、このうち那覇は、全ての家屋の9割に当たるおよそ1万1千戸が焼失する壊滅的な被害を受けた。

また、民間の犠牲者は330人で、このうち那覇市民は255人(県史より)が命を奪われた。

その時首里に住んでいた古波蔵さんの家族に被害は無かったが、那覇の久茂地に住んでいた親族は空襲で家を失った。

古波蔵さんは、「親族が持ってきた羽釜の輪っかの部分が、溶けてギザギザになっていました。釜を溶かすほどの大火災だったと思うと、その時に初めて恐怖感というか、子どもながらにビックリした記憶が残っています」と首里に避難してきた親族の姿を、今も鮮明に覚えている。

提供:那覇市歴史博物館

空襲にはアメリカ軍の2つの目的

10月10日の空襲は、午前7時前から午後4時ごろまで5回に渡って行われた。

沖縄国際大学の元教授で県史の編纂(へんさん)にも携わった、沖縄戦の研究者・吉浜忍さんは、「この5回の空襲には、アメリカ軍の目的が表れている」と指摘する。

沖縄戦の研究者 吉浜忍さん
「一つ目は、南西諸島の飛行場や港湾、台湾の空軍基地などを叩くということ。二つ目は、次の上陸は沖縄だろうということで、そのための情報収集。特に空からどんどん写真を撮るという空撮。この二つがあったということです」

10・10空襲の前、アメリカ軍はすでにサイパンなどマリアナ諸島を陥落し、次に当時、日本が占領していたフィリピンのレイテ島と沖縄の攻略を画策していた。

アメリカ軍にとって空襲は、フィリピンや台湾への出撃の拠点となる沖縄の飛行場や港を攻撃し、援軍を断つ事と、沖縄攻略に向けた情報収集の目的があったと吉浜さんは解説する。

沖縄県教育委員会が出版した書籍には、アメリカ軍は224機の撮影機を投入し、航空写真を基に沖縄の地図を作成したとされている。

空襲により持久作戦に切り替え 沖縄戦の方向を決定付ける

アメリカ軍の圧倒的な軍事力と周到な作戦によって、沖縄への攻勢が強められていくなか、日本軍は沖縄戦の方向を決定付けるある判断を下す。

沖縄戦の研究者 吉浜忍さん
「(空襲後に)第9師団が台湾に移動しますので、兵力は小さくなってくるわけです」

空襲から1か月後、日本軍は沖縄に駐留していた部隊の一つ、第9師団をフィリピン・レイテ島の戦線に送るため転出させた。

戦力を欠いた第32軍は戦闘方針を本土防衛のための「持久戦」と位置付け、さらに、失った戦力を確保するため、防衛召集をかけるなど多くの沖縄県民が動員された。

吉浜さんは、「第9師団が移動したためにも徹底した持久作戦にきりかえ、本土防衛するために時間を少しでも稼ぐという作戦が、住民被害を大きくしていった」と指摘する。

その後、幼い子どもたちが戦場に送り込まれた学徒動員や、第32軍の南部撤退などによって、4人に1人の県民が犠牲になったといわれる地上戦の道をたどることとなった。

戦前の大本営 あの雰囲気が思い出させる

アメリカ軍の上陸を前に、次第に首里にもアメリカ軍の攻撃が及ぶようになり、古波蔵さんが住んでいた家は空爆によって焼失する。

当時5歳だった古波蔵さんは南部に避難する最中に家族とはぐれ、1人で戦場をさまよった。

古波蔵保隆さん
「背負っていた風呂敷包みの中を見たら、爆弾の破片が焦げたまま、私の首元で止まっていまいした。風呂敷の中身も全部、焦げた穴が開いていました」

命の危険にさらされがらも古波蔵さんは偶然、祖父と再会を果たすが、ガマに避難したところをアメリカ軍の捕虜となった。

古波蔵さんは「沖縄の先島といった島々への基地建設やミサイル配置が、まるで戦前の大本営や上からの高圧的なあの雰囲気が思い出されます」と、いま自分の戦争経験を伝えなければいけないという思いに駆られている。

ロシアのウクライナ侵攻や米中の対立による台湾有事への懸念の高まり。そして、沖縄で進む自衛隊の増強を古波蔵さんは戦前と重ねて、沖縄が再び戦場にならないか危惧している。

「この(首里の)石畳に軍靴の響きを二度と響かせてはいけない。これはいまの生きている僕らの責務だと思っています」と古波蔵さんは強く訴える。

沖縄戦の方向性を決定付け「前哨戦」と位置付けられた10・10空襲。

悲惨な戦争を繰り返さないためにも、いまこそ歴史と向き合い、10・10空襲の記憶を繋いでいかなければいけない。

あわせて読みたい記事

HY 366日が月9ドラマに…

あなたへおすすめ!