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国家に強制された死 。沖縄のガマと呼ばれる”自然洞窟で起きた悲劇” 38年間のタブー…戦後80年何故その沈黙を破ったのか?
目次:
・「はじめは好奇心から」埋もれた記憶を掘り起こす旅
・沈黙が破られた瞬間
・住民を死に追いやったもの
・自国民のホロコースト 国家に強制された死
沈黙が破られた瞬間
1983年7月、平信さんの呼びかけで波平公民館12人の体験者や遺族が集まった。地元の若者たちも調査に加わった。
下嶋さんは当時の資料を今も大切に保管している。調査票にはチビチリガマに入った家族の名前や年齢、生死などが一家族ずつ丁寧に記入されている。
体験者の証言を録音したカセットテープには、ガマの中で何が起きていたのか生々しい証言が記録されていた。

そこには、チビチリガマに入った家族の名前や年齢、生存か死亡かといった情報が一家族ずつ記されていた。

1945年4月2日、アメリカ軍が迫るガマの中。音声記録から当時の混乱と恐怖が伝わる。
やがてアメリカ兵がガマに入ってくると追い詰められた住民たちは火をつけ、たちまち激しい煙にまかれた。
ガマの中で自決が始まるきっかけはある少女の言葉だった。自分の置かれた状況を理解した彼女は「もう逃げられない」と辛い胸のうちを親に語ったあと最期にはこう頼んだ。
「殺してほしい…」
親は動揺しながらも彼女の願いに応じた。少女は「自決の第一号」とされた。

下嶋哲朗さん
「調査をしていて強く感じたのは本当は話したくて、吐き出したくてたまらないという気持ちだったと思います。何十年も黙っていたため、忘れていることも多い。それでも大事なことを思い出して手紙に書いてくれたりしました。私の記憶の限りでは拒絶されたことは一度もありません」

10日間におよぶ調査の結果、チビチリガマには31家族140人が避難し83人が犠牲になったことが判明した。家族が全員無事だったのはわずか2家族だった。
その後、チビチリガマは整備され、毎年4月2日にあわせて慰霊祭が執り行われるようになった。

比嘉さんから遺族会長を引き継いだ與那覇徳雄(のりお)さんは当時、ガマの存在すら知らず衝撃を受けたという。
チビチリガマ遺族会 與那覇徳雄 会長
「祖父母やおじ、おばが自決したと聞いて。最初はどういうことか理解できず驚きました。母から一言もこういった話を聞かされていなかった」

若い世代として調査をけん引した知花昌一さんの息子・昌太朗さんは波平の住民だけでも下嶋さんら外部の力だけでも調査は成功しなかったと考えている。
知花昌太朗さん
「こういうことがあったのだよ、とバトンを受け取って語ることはできると思います。でも、それを協力して世に出すという行動には、相当なエネルギーが必要だったと思いますし、率直に言って、すごいと感じています」

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