復帰50年,文化
復帰を知る vol.1 ~うつろう日の丸~
沖縄は2022年、本土復帰50年の節目を迎える。OKITIVEでは「本土復帰50年企画」として、2012年に沖縄テレビのニュース番組内で特集したシリーズ企画「復帰を知る」などの過去の放送素材と、新たに取材した復帰にまつわる内容などを加えて特集していきます。
1回目は「復帰を知る ~うつろう日の丸~」です。
復帰前、人々は盛んに日の丸を手に沖縄の祖国復帰を求める大衆運動を展開した。
しかし、1987年、復帰15年を記念して開かれた海邦国体では日の丸焼き捨て事件が発生。
そこにはどんな県民感情の変化があったのだろうか・・・
沖縄が本土に復帰する10年前、那覇市の中学校では日の丸が掲揚され、教職員、生徒たちが感慨深げな表情をみせている。
1960年に結成された沖縄県祖国復帰協議会(以下、復帰協)の大会でも日の丸は欠かせないもので、当時の状況を沖縄の近現代史を研究する沖縄大学名誉教授の故・新崎盛暉さんはこう振り返る。
沖縄大学名誉教授 故・新崎盛暉さん
「米軍支配下では、最初の初期の段階は日の丸が禁止されていましたから」
「そういう米軍支配下から抜け出して戦後生まれ変わった日本に復帰するということのひとつのシンボルに日の丸はなったということですね」
「沖縄の民衆が望んでいた復帰というのはいわば平和憲法下への復帰だったわけですね」
しかし、こうした県民感情は復帰の在り方が明らかになるにつれ変化していったという。
沖縄大学名誉教授 故・新崎盛暉さん
「現実には平和憲法下への復帰ではなくて、基地を丸ごと維持して沖縄にそれを集約する形での復帰、そして自衛隊も配備されるという形は当然受け入れられないということで」
「これに対する反発が強まって日本のシンボルである日の丸そのものが消えていったということになりますね」
復帰の日に復帰協が開いた集会には日の丸が掲げられる事はなかった。
復帰後の沖縄では日の丸について複雑な県民感情が投影されていく。
1985年文部省が全国の教育委員会に君が代日の丸の徹底を図るよう通告したことに端を発し、翌年の卒業式は各地で大きな混乱を来した。
沖縄盲学校では生徒や職員が日の丸の掲揚に反対して卒業式が延期される異常事態となり、読谷高校では、女生徒が日の丸を引き下ろし道路に投げ捨てた。
そして、1987年の海邦国体では、少年男子ソフトボール競技の開始式で日の丸焼き捨て事件が発生した。
事件の背景には、沖縄戦をはじめ戦争のシンボルとしての日の丸への抵抗感、そして復帰後も変わらぬアメリカ軍基地の現状に対する反発があったという。
沖縄大学名誉教授 故・新崎盛暉さん
「強制して日の丸を揚げさせようとした。それに抵抗する運動として日の丸を引き下ろす焼き捨てる事が起こってそれが大きくクローズアップされた」
「力づくで何かやろうとする事は必ず民衆の反発を招く。そういうことは日の丸を中心にしてもみえてくる」
新崎さんは国が力づくで沖縄に負担を強いる普天間基地を巡る問題も本質は同じと指摘した上で、沖縄が政府に対しノーを突きつけていることにこう希望を託した。
沖縄大学名誉教授 故・新崎盛暉さん
「沖縄が全体として自分たちの力に自身を持ってきているというのはあると思います」
「僕はこういう状況はある意味望ましい状態が生まれつつあるし、おそらく将来この延長線上で民衆の力が新しい沖縄をつくっていく方向に行ってほしいと思いますけどね」
沖縄大学名誉教授の新崎盛暉さんは2018年肺炎のため82歳で死去。
「日本にとって沖縄とは何か」という問いを原点に戦後の基地問題をはじめ本土復帰を巡る沖縄の市民運動の研究などに多大な足跡を残してきた。
復帰50年未来へ オキナワ・沖縄・OKINAWA
2022年5月15日(日)正午から沖縄県内のテレビ8チャンネルにて生放送!
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