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OTV報道部

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復帰を知る vol.8 〜米国の裁量により制限される農耕作〜

沖縄は2022年、本土復帰50年の節目を迎える。OKITIVEでは「本土復帰50年企画」として、2012年に沖縄テレビのニュース番組内で特集したシリーズ企画「復帰を知る」などの過去の放送素材と、新たに取材した復帰にまつわる内容などを加えて特集していきます。
8回目は、米国の裁量により制限される耕作についてです。

2012年3月15日付でアメリカ軍が読谷村の大木区と楚辺区に対して手渡した一枚の要請文。この中でアメリカ軍はトリイ通信施設に新たな施設を建設するためいわゆる黙認耕作地を明け渡すよう求めている。黙認耕作地はどんな経緯で作られてきたのか。

読谷村楚辺に住む松田榮喜さん92歳、毎朝、出掛ける場所がある。目指すのは、楚辺集落に隣接するトリイ通信施設。アメリカ軍が発行する通行パスを提示し、フェンスの中にある畑へと向かった。そこはかつて集落のあった場所、松田さんは土地を接収された時のことを今も鮮明に憶えている。

読谷村楚辺に住む松田榮喜さん
「ちょうど1952年5月17日かな、青年会クラブの所に、3時頃、後藤という2世のアメリカ兵が楚辺通信基地を作るからあんた達は達の立ち退いて下さいって来たわけさ。それから大騒動になったわけさ。移りたくないからこっちに居たいと陳情したんだがアメリカ軍は全然聞かない」

1952年、400戸あまりが移転を余儀なくされた。楚辺誌には、当時、アメリカ軍が提示した条件が記されている。水道はアメリカ軍が敷設すること、そして、「軍が使わない所は耕作させる」ことを条件に集落は移動した。

しかし、その2年後、アメリカ軍は基地内から軍需品が盗まれたという理由で16万坪に及ぶ広大な黙認耕作地を立ち入り禁止にした。

読谷村楚辺に住む松田榮喜さん
「一番、楚辺の経済的にも困窮していた時代、みんなが荒れて事件なんかもあって荒れている時分に大変なことになったということで、元の楚辺部落を思い出して詩を作った」

一、情けないのよ 戦のため元の部落を立ち退きされて人も通わず 煙も立たず。
二、情けないのよ アメリカさんは作る農家の土地までとって農耕禁止と布令だす。

1959年アメリカ民政府は、高等弁務官布令20号で「アメリカ軍が緊急に必要としない土地は、一定の条件のもとで農耕などに一時使用する特権を許可する」としたが、あわせて「アメリカの自由裁量によりいつでも取り消すことができる」と規定した。

このため読谷村では1954年から2年間、耕作が禁止され、開放された後も、住民は危険と隣り合せの日常を強いられてきた。

元沖縄テレビアナウンサー 島袋秀光さん
「読谷村の民家近くに7キロもの重りのついたパラシュートが落ちてきたことで、パラシュート落下事故が大きくクローズアップされてから40日を経てまた再開されました。こうした中で、訓練が行われ農家の人が丹誠込めて栽培している農作物の中にマリン兵(海兵隊員)によるパラシュート訓練が行われたわけです」

日米特別行動委員会SACOの最終合意に基づき、2006年に村は読谷補助飛行場跡地を国から取得し農業による利活用を進めている。

村は国と嘉手納弾薬庫の村有地と対価交換。現在、土地改良を進める。

読谷村 石嶺 傳實村長
「この地域から6億あまりの農業生産を見込んでいます。花卉園芸、ハウスものの野菜、人参、甘藷、路地ではキビ、サツマイモそういうものをやる予定になっております」

一方、トリイ通信施設は、逆に強化される見通しで、アメリカ軍は先月、地元に黙認耕作地を明け渡すよう求めている。

読谷村 石嶺 傳實村長
「そこにしか農耕地がない皆さんがいるわけですから、農耕地を狭めていくような事には非常に反対をして色々調整をしていきたいと思っています」

村によると、2010年3月の時点で村内にある基地で耕作している住民は466人に上る。基地に翻弄され続けてきた松田さんにとっての復帰とは?

読谷村楚辺に住む松田榮喜さん
「一般の人は生活だからね、生活のことしか考えてなかった。あんまり。知識人は(土地が)帰ってくるよ、教育含めて良くなるからって喜んでおられたがね。本当は(基地は)ない方がいいね、子孫のためには」

「アメリカ軍はトリイ通信施設にどのような施設を建設するか明らかにしていませんが、2014年の4月から本格的な工事を始めたいとして、耕作地の明け渡しを求めています。復帰を経てなお、アメリカの裁量によって住民の生活が左右される現実は何ら変わっていません」

復帰50年未来へ オキナワ・沖縄・OKINAWA
2022年5月15日(日)正午から沖縄県内のテレビ8チャンネルにて生放送!

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