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𡈽肥 健一 ~沖縄そばの名を守るべく国のルールと闘った熱血漢~【オキナワ強者(チューバー)列伝】
1972年5月15日、沖縄は日本復帰。あれから50年という歳月が流れた。
戦後、アメリカの占領統治下での苦難を乗り越え「復帰」にたどり着いた沖縄。
世紀の「世替わり」の裏側では、時代を切り拓いた「強者(チューバー)」がいた!
「世替わり」という激流の中で奮闘した「強者」の姿にスポットを当てる!
※チューバー:琉球語で「強い」「強がる」「気が強い」「勇気がある」の意
今回は「食」をテーマに、沖縄県民の食卓を守った4人の男を紹介!
はちゃめちゃでパワフルな男たちの物語!
「食」の強者(チューバー)4人目は、𡈽肥健一!!
1972年の本土復帰により、沖縄も衣食住において日本本土のあらゆる法律が適用。
そこで問題となったのが『沖縄そば』。
そばと表記するには、日本では原材料にそば粉が30%以上配合されていないといけなかった。
ところが、沖縄そばの原材料は小麦粉100%…。
絶体絶命の中、𡈽肥は国のルールにどう立ち向かったのか!?
熊本県出身のそばジョーグー!𡈽肥が仕掛けたそばにまつわる“ある恒例行事”
12月31日の大みそか。皆さんは毎年何を食べて新年を迎えるだろうか?
街の沖縄そば屋さんにはいつも以上の行列ができたり、食料品店のそばの在庫が品薄になったり、“年越しそば”といわれるように縁起を担いでおそばを食べる人も多いのでは?
そばは長く伸ばして細く切って作る食べ物であり、細く長くということから「健康長寿」などの縁起をかついで食べるようになったという説が一般的。
実は、この年越しそば。日本本土では、江戸時代から定着したとされている。
ところがこの文化が沖縄で浸透したのは、本土復帰前後の1970年代だったのである。
その仕掛け人が、𡈽肥健一であった。
本土復帰の4年前、1968年の暮れ。
年越しそばに馴染みのない沖縄県民に親しんでもらおうと、土肥は波の上宮にて108杯分の和そばを用意して販売した。
ウチナーンチュがどういう反応を見せてくれるか…
期待に胸を弾ませながら、波の上宮で客の訪れを待っていた𡈽肥は驚愕した!
なんと、蓋を開けてみると売れたのはわずか20杯だった…。
𡈽肥は当時を振り返って「買いに来たのはモノ好きが数人で、あとは知人ばっかりだった。確かに、大晦日に和そばを食べるなんて変わり者だよね」と笑って回顧する。
しかしこの文化も県民の間に徐々に浸透していく。こうした𡈽肥の年越しそばの催しは、本土復帰後の1973年まで続けられた。
𡈽肥自身、続けるうちに次第に手ごたえを感じていたらしい。その甲斐もあって、1983年頃から「年越しそば」というフレーズが定着してきた。
これを仕掛けた𡈽肥本人も新聞の取材を受けるようになるなど、世間の反響が目で見てわかるようになっていった。
さらに土肥は、1969年には年越しそばを普及させるため、家で作れるスープ付きそばセットも各社に先駆けて販売したそうだ。
ご存じの通り現在では、師走は各製麺会社の書き入れ時となっている。
町のスーパーマーケットでも麺やスープの仕入れ量が増えるなど、今や大みそかにはそばを食べる文化が沖縄でも当たり前になっているのだ。
𡈽肥の情熱が、沖縄に新たな食文化をもたらしたのだ。
そのほか、𡈽肥健一のチューバー列伝はこちらをご覧ください。
「アメリカ世」から「ヤマトの世」へ!「復帰」という時代の大転換の荒波の中、様々なジャンルで沖縄のために奮闘した「強者(チューバー)」たちの熱い物語を、沖縄テレビが記録したアーカイブ映像や、証言をもとにしたドラマで振り返る!
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