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OTV報道部

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復帰を知る vol.9 〜時代の犠牲となった第一球陽丸〜

沖縄は2022年、本土復帰50年の節目を迎える。OKITIVEでは「本土復帰50年企画」として、2012年に沖縄テレビのニュース番組内で特集したシリーズ企画「復帰を知る」などの過去の放送素材と、新たに取材した復帰にまつわる内容などを加えて特集していきます。
9回目は、時代の犠牲となった第一球陽丸についてです。

船体にいくつも空いた大きな穴。
船の名は「第一球陽丸」です。

元第一球陽丸の通信士 新里猛三さん
(資料映像を見て)「あっ船長ですよ、佐久本船長。わかいなぁ」

与那原町に住む新里猛三さんは、この船に通信士として乗船していた。

元第一球陽丸の通信士 新里猛三さん
「バラバラバラっときた後に『これは大変だ、おい、銃撃を受けているぞぉ』ってことで蜘蛛の子を散らすようにあっちこっち逃げ回っていたんですね」

1962年4月3日、赤道に近いセレベス海を航行していた沖縄のマグロ漁船 「第一球陽丸」。
インドネシアの海軍機から機銃掃射を浴び甲板員1人が死亡、機関長ら3人が重軽傷を負った。

南海の悲劇はなぜ起きたのか?

元海邦丸の通信士 与那城安照さん
「こんにちはー、久し振り、元気ね?ご無沙汰です。どうぞ入ってください。」

十数年ぶりの再会となった2人。新里さんにとって与那城さんは、いわば命の恩人。

元海邦丸の通信士 与那城安照さん
「マグロ漁業の実習をやっていた最中なんですよ。第一球陽丸が銃撃を受けたという無線連絡を受けたものですから」

球陽丸のSOSを受信したのは、近海で操業中だった沖縄水産高校の実習船「海邦丸」。
海邦丸の通信士だった与那城さんは、沖縄にいち早く第一報を伝えた。

元第一球陽丸の通信士 新里猛三さん
「最初は、あれ、なんだろうというくらいのものです。死者もでたということでね、ショックでしたね」

交信の中継役となった海邦丸。極度の緊張感が短い電報から伝わってきたという。

元第一球陽丸の通信士 新里猛三さん
「『やられたー』というような声が聞こえた気がしますね。ベッドでのたうち回ってね。しかし、みんな怖いから近付かないんですよ。飛行機がいつくるかわらかない。ところが、ぼくらと船長は逃げるわけにはいきませんよね、やらなければいけませんから。もうやられたらしょうがないという思いで後は、肝は据わりましたね」

激しい混信の中、不眠不休で打電が続けられ、重傷の機関長は、治療のため近くの港町への緊急入域が決まり、一命を取り留めた。

そして、事件の発端が明らかになった。

元海邦丸の通信士 与那城安照さん
「なぜそうなったかというと、インドネシアの海軍のステートメントでは、”国籍不明”という船舶だったから…」

当時も今も国際法上、船舶は自国の国旗を掲げなければならない。しかし、アメリカの施政権下にあった復帰前の沖縄。日の丸の掲揚は許されていなかった。

当時、船舶標示についてアメリカ民政府の布令はこのように定めていた。
「国際信号D旗の尾端を等辺三角形に切り取った特別な旗を掲げなければならない」

国際信号旗とは船舶の間で通信に用いられる世界共通の旗。「水先人が乗船中」など一目で意味がわかり、その1つが「D旗」。

D旗を切り取った琉球船舶旗とはいったいどのような旗だったのか?関係者が当時の旗を再現したものを保管していた。

Q.「通常であれば四角なんですか?」

琉球海運 比嘉榮仁会長
「これを切らなければ、国際信号旗のD旗ということで、その意味するところは、『我を避けよ、我操縦意の如く成らず』という意味なんです。
この旗を掲げて航行していたら、しかし、一般にはどういう旗か分からないわけですから、不審船だと。得体の知れない船だということでたまたま銃撃を受けたりしたと」

「我操縦如く成らず」。

皮肉にも琉球の船舶が掲げていたのは日本とアメリカに挟まれ袋小路に陥った沖縄を象徴するかのような意味の旗だった。

事件を機に、国籍不明の旗の問題は大きくクローズアップされた。
こうした中、一命をとりとめた乗組員が故郷の地を踏みしめたのは半年後のことだった。

琉球船舶旗を掲げ、インドネシアの海軍機に国籍不明船として機銃掃射を浴びた第一球陽丸。乗組員1人が死亡、3人が重軽傷を負った。

この日、私たちが訪ねたのは球陽丸の機関長だった糸数清助さん。銃撃を受け大けがを負った。

元球陽丸 機関長 糸数清助さん
「もう80歳超えましたけどね、あの時の痛みの念しかないですよ。(銃弾が)身体を貫通して抜けていったんですよ…」

銃撃の後遺症のため現在も腰掛けが欠かせない。

糸数さんが沖縄に戻ることができたのは半年後。日米の関係者、そして家族が出迎えました。しかし、その後も病院通いが続き、彼が甲板に立つことは二度となかった。

元球陽丸 機関長 糸数清助さん
「当時は、あの事件を避けるちゅうことはできなかったですよね…」

時代の犠牲となった球陽丸事件の直後、当時の高等弁務官は琉球船舶旗の変更を拒否。

まもなく立法院では琉球船舶への日の丸掲揚を求める決議を全会一致で可決し、日本政府も問題解決に乗り出す考えを示した。しかし、改善が図られたのは5年も後のことだった。

日の丸の上に、リュウキュウの文字が書かれた細長い三角形の旗を付ける人々。

1967年7月1日、全ての船舶に掲げられた新たな琉球船舶旗は、本土復帰の日を迎えるまで海風になびいた。

元第一球陽丸の通信士 新里猛三さん
「あれがなければ恐らく、何年もほったらかしだったんじゃないかなと思うんですよ」

元海邦丸の通信士 与那城安照さん
「亡くなられたかたには申し訳ないけど、本当にこれが契機でね、日の丸にみんな愛着心がわいたんじゃないですかね。船に乗って世界を回っている人間にとっては日の丸を掲げるということは、これで堂々と7つの海を走ることができるっていうことなんですよね」

海外を航行する際、船舶の安全と身分を保障する国旗。あいまいな旗に翻弄され生命の危険に晒された船乗りたちの記憶は歴史の波間に消え行こうとしている。

世界の海をかける人々にとって日の丸は自分たちの身を守る上で重要な意味を持っていたという。「陸上の感覚とは違うよ、国旗は大切にしなければ」と取材した方々はみな一様に話していた。

復帰50年未来へ オキナワ・沖縄・OKINAWA
2022年5月15日(日)正午から沖縄県内のテレビ8チャンネルにて生放送!

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