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OTV報道部

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復帰を知る vol.10 ~海上集会 かがり火~

沖縄は2022年、本土復帰50年の節目を迎える。OKITIVEでは「本土復帰50年企画」として、2012年に沖縄テレビのニュース番組内で特集したシリーズ企画「復帰を知る」などの過去の放送素材と、新たに取材した復帰にまつわる内容などを加えて特集していきます。
10回目は、「海上集会 かがり火」についてです。

復帰を知る沖縄が本土と分断された屈辱の日にあわせて2012年4月9日、海上集会が行われた。復帰に託した沖縄の思いと現実について再認識する日となった。

当時のリポート
「かつて、この海には見えない国境線がありました。沖縄が本土に復帰して今年40年目の節目に海上集会が再現されます」

北緯27度線。かつて沖縄と本土を分断した海の上で、43年ぶりに人々が固い握手を交わした。

青山惠昭さん
「我々は戦前から続き両町村の心の絆を継承し、これからも交流を深めることを約束する」

国頭側の船に乗った青山惠昭さん。復帰前、学生時代に参加した海上集会で十数年ぶりに与論の叔父に再会した。

そして今回もあの時と同じように海の上で再会したい人がいた。

海上集会と時を同じくして辺戸岬を訪れていたのはかつて、海上集会を実現させた沖縄県祖国復帰協のメンバーだった人々。

その歩みは、沖縄が本土と切り離された70年前へ遡る。

故・福地曠昭さん
「行政権・司法・立法オールマイティーで、こういう風なことは植民地以下じゃないですか」

70年前、1952年4月28日。サンフランシスコ講和条約により、アメリカの施政権下に置かれた沖縄。
4月28日を人々は「屈辱の日」と呼び、復帰運動の気運が 高まっていった。

故・福地曠昭さん
「我々は即時無条件返還という言葉を使いましたけど、そういう我々の願いと悲願と、だからここも悲願たき火大会。悲願海上集会と…」

1963年の4月28日。沖縄側と本土側の代表団が北緯27度線に結集。復帰運動を象徴する、初の海上集会が開かれ、「沖縄を返せ」の歌がこだました。

元首相 佐藤栄作
「沖縄の復帰が実現しない限り、我が国にとって戦後が終わっていないことをよく承知しております」

「復帰はそう遠くない」高まる人々の期待感とは裏腹に、その内実が次第に明らかになっていった。

故・福地曠昭さん
「沖縄の人たちは核抜き本土並みとあれだけいったのに、核付き本土並みどころか、不要基地だけ返されたけど、決して我々は復帰の時点で我々の思いに届かなかったですね」

復帰に託した思いとかけ離れた現実。人々の足並みは乱れ、海上集会は復帰を3年後に控えた1969年が最後となった。

復帰前、海上集会で離れ離れになった叔父と再会できた青山惠昭さん。43年ぶりの集会ではその叔父の息子、従兄の青山吉雄さんとの再会を待ち望んでいた。沖縄側の海を見つめるのはいとこの吉雄さん。惠昭さんとは幼いころ、よく遊んだ仲だ。

青山吉雄さん
「無事あえて、握手できればいいけどな」

そして船が集う北緯27度線上、吉雄さんが船首に駆け寄った。

青山吉雄さん
「惠昭!」

青山惠昭さん
「よしお!おーい!よう来たね! あらあら元気そうだ」

握手は叶わなかったが、かつて国境線だった闘争の海が、長く分断された沖縄と与論の友好の海となったことを噛みしめた。

青山惠昭さん
「参加したのは小さな者と小さな島の物語なんですけども、持っているテーマは大きな物語。ストーリーでね。大変な影響力を持つ集まりだったんじゃないですかね」

「なんで国境がなくなって外国でもないのに何でやるかというと、そこに1つの40年前の闘いの歴史を大事にしながら、若い皆さんに未来をたくす。住みよい平和な地域を作るって言うのがきょうのメッセージ、海上集会でのメッセージでしたから」

分断の歴史を振り返り沖縄と与論の絆を深めた海上集会。復帰にかけた 人々の思いは燃え盛るかがり火のように次の世代の行く先を照らしている。

復帰50年未来へ オキナワ・沖縄・OKINAWA
2022年5月15日(日)正午から沖縄県内のテレビ8チャンネルにて生放送!

>番組情報はこちら!

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