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OTV報道部

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復帰を知る vol.14 〜元キャスターが伝えた本土復帰〜

沖縄は2022年、本土復帰50年の節目を迎える。OKITIVEでは「本土復帰50年企画」として、2012年に沖縄テレビのニュース番組内で特集したシリーズ企画「復帰を知る」などの過去の放送素材と、新たに取材した復帰にまつわる内容などを加えて特集していきます。
14回目は、元キャスターが伝えた本土復帰についてです。

アメリカによる占領支配からの脱却を願い、本土復帰への胎動がこの島に広がっていった時代に、沖縄テレビは開局した。

1964年に入社した島袋秀光さんは、32年間にわたってニュースキャスターを務め、激動の時代に向き合ってきた。復帰までの間にアメリカの強大な権力、その影響は時に放送事業にまで及んだと言いう。

元沖縄テレビアナウンサー 島袋秀光さん
「放送、電波もアメリカが握っているわけですから、アメリカの厳しい目を気にしながらの放送だった一面もあると思いますね」

沖縄テレビが開局して5年後の1964年。電波の世界は一足早く本土復帰を果たした。同時・速報性といういわばテレビ報道の命綱を担保する動脈が、本土との間で結ばれたのだ。

元沖縄テレビアナウンサー 島袋秀光さん
「いよいよ我々は、本土のヤマトの番組を茶の間で観られるんだという喜びですね、そこから始まって沖縄の人たちというのは復帰に対する期待感というのは大きく感じたんですよ」

放送にあたって免許の申請が必要だったのは今と同じだった。アメリカ民政府が提供する広報番組の放送には、占領支配の影響が色濃くにじんでいた。

元沖縄テレビアナウンサー 島袋秀光さん
「タイトルが、人・時・場所という、つまりアメリカは沖縄のためにこういうことをやってますよという、生活に密着したような話を全部するわけですね。いわゆる完全なる宣伝で、それにはスタジオに(アメリカ民政府の)広報官が来て一つ一つ喋りをチェックするという厳しいところはあった。言論統制とまでは言わなくてもやはりそれを気にしながらの喋りだったというか、忸怩たるものを感じながらの仕事だったかなという気がしますね」

政治・経済・社会あらゆる場面で激動の時代を象徴するような出来事は、本土復帰を翌年に控えた1971年に集中したという。相次ぐ不条理と住民の憤りを前に、特別番組がその都度放送された。

元沖縄テレビアナウンサー 島袋秀光さん
「少ない人数でもこれは放送すべきだろうということで管理職も含めてやったという、あの使命感というんですかね。映像の立場として放送する立場としては、こういうことを正確に皆さんに分かって頂くために、放送したという自負心は持っています」

元沖縄テレビアナウンサー 島袋秀光さん
「予期せぬ事件は、復帰準備を進める琉球政府を惑わし94万県民を混迷の渦の中に、巻き込んだ形となりました。そして復帰の年、1972年を数時間後に控えた最後の最後まで琉球政府は…」

1971年を振り返る大晦日のニュースハイライト。この放送から数時間後、午前零時をまわった時計の針が沖縄の世替わりを告げた。

元沖縄テレビアナウンサー 島袋秀光さん
「私はスタジオにいましてね、当時は生放送ですから、放送が始まるときはちゃんとコールサインを言うんですよ、これまではアメリカチャンネルで、沖縄テレビの場合はKSDW‐TV10チャンネルの沖縄テレビですって言ってたんです。ところが5月15日のコールサインがJOOF‐TV 8チャンネル沖縄テレビですと自分の生の声で喋ったときのあの気持は一生忘れられませんね」

戦争が終わって苦難の道を歩み、本土への復帰に願いを託した沖縄の人達がいた。希望という名の理想を追い求める過程を、そして葛藤という名の現実に直面した姿をもカメラで捉え伝えてきたメディアの一員として、島袋さんは本土復帰とは何かを問い続けるべきだと話す。

元沖縄テレビアナウンサー 島袋秀光さん
「40年経って、じゃあ10年後にどうするんですかと、半世紀にどうするんですかという、今こそ我々が考える時期に来ているんじゃないかと。5月15日は毎年来ますので、1年後にどう変わったかという検証。基地問題はどうなっているのか振興開発計画はどういま進捗状況、どうなのかということをメディアが一つ一つチェックしていって頂きたい。年中行事、行事的に扱わないで頂きたい」

元沖縄テレビアナウンサー 島袋秀光さん
「自分を見つめる日と、自分を確認する、県民の再確認の日と位置づけなければ、復帰した事の意味合いがなくなるんじゃないかと」

復帰50年未来へ オキナワ・沖縄・OKINAWA
2022年5月15日(日)正午から沖縄県内のテレビ8チャンネルにて生放送!

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