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折田喜作 ~宮古島の青年が築き上げた、沖縄県民に愛されるサンエー創業者~【オキナワ強者(チューバー)列伝】
1972年5月15日、沖縄は日本復帰。あれから50年という歳月が流れた。
戦後、アメリカの占領統治下での苦難を乗り越え「復帰」にたどり着いた沖縄。
世紀の「世替わり」の裏側では、時代を切り拓いた「強者(チューバー)」がいた!
「世替わり」という激流の中で奮闘した「強者」の姿にスポットを当てる!
※チューバー:琉球語で「強い」「強がる」「気が強い」「勇気がある」の意
今回は「流通」をテーマに、今日の生活にも馴染みの深い沖縄県内を代表する流通小売業3社の創業者をご紹介。
いかにして本土復帰前後の時代の変わり目を乗り越えてきたのか、3人の強者の苦難や葛藤、決断の物語を紹介します!
はちゃめちゃでパワフルな男たちの物語!
「流通」の強者(チューバー)1人目は、折田喜作!!

折田喜作は、1927年(昭和2年)宮古島生まれ。雑貨屋の四男として生を享ける。
1945年、18歳で宮古中学を卒業。
直後に代用教員になるも第二次世界大戦の戦況悪化で教員の仕事に疑問を抱き退職。その後、農業に徹する。
1947年、20歳で妻・澄と結婚する。
折田の商売人としての原点。それは、宮古島時代に培った「相対売り」の精神
1950年(昭和25年)、22歳の折田は妻・澄と共に、地元の宮古島・城辺から離れた島の中心地・平良にて小さな商店を開業する。
これがサンエーのルーツ「折田商店」である。
しかし何のツテもない田舎から出てきた若者夫婦が上手くいくほど商売は甘くない。
お客は、買い物上手、百戦錬磨の平良のアンマー(お母さん)達。この出会いが折田に商売の基礎を叩き込んだという。
アンマー達は折田に声をかける。
「ハーイ、パリヤーニセー!(おい、田舎青年)、あんたの品物は高いさ!」
実はこれも駆け引きであり、挨拶なのだ。城辺から来ている折田青年は何もわからず戸惑っている間にあれよあれよと、値引きをさせられてしまう…。
言われるままに値引きをしていると、地元城辺から10キロの道のりをかけて商売をしている割には儲からない…。
「人間何事も体験だ。体験こそが大事」
意を決した折田はアンマー達への向き合い方を変える。商売のノウハウをアンマー達から自然に学ばされたのである。
挨拶代わりの「あんたの野菜は高い!」に「なら、他で買えばいい!」と突っぱねた。
すると、「パリヤーニセー、その値段で買うさ。」「商売はゲームだ。」
相対売りのルール、そして商売の楽しさを教えてくれたのは、宮古島時代に出会ったアンマー達だったのだ。

そのほか、折田喜作のチューバー列伝はこちらをご覧ください。
「アメリカ世」から「ヤマトの世」へ!「復帰」という時代の大転換の荒波の中、様々なジャンルで沖縄のために奮闘した「強者(チューバー)」たちの熱い物語を、沖縄テレビが記録したアーカイブ映像や、証言をもとにしたドラマで振り返る!
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