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仲田幸子~喜劇の女王~【オキナワ強者(チューバー)列伝】
1972年5月15日、沖縄は日本復帰。あれから50年という歳月が流れた。
戦後、アメリカの占領統治下での苦難を乗り越え「復帰」にたどり着いた沖縄。
世紀の「世替わり」の裏側では、時代を切り拓いた「強者(チューバー)」がいた!
「世替わり」という激流の中で奮闘した「強者」の姿にスポットを当てる!
※チューバー:琉球語で「強い」「強がる」「気が強い」「勇気がある」の意
今回は「女性」をテーマに、さまざまな分野で活躍し県民に勇気を与えた女性3人をご紹介。
いかにして本土復帰前後の時代の変わり目を乗り越えてきたのか、3人の強者の苦難や葛藤、決断の物語を紹介します!
はちゃめちゃでパワフルな女たちの物語!
「女性」の強者(チューバー)3人目は、仲田幸子!!

仲田幸子は、1932年(昭和7年)泉崎生まれ。
幼い頃、祖母に連れられて見た沖縄芝居に衝撃を受け、舞台女優に憧れを持つようになる。
戦後、舞台女優として芸能の道を歩むことになった仲田幸子は、24歳で劇団でいご座を旗揚げ。
長く沖縄芸能をけん引し、沖縄中に笑いを届けている。
喜劇の女王も最初は”苦難の連続”だった・・・
”喜劇の女王”仲田幸子の女優人生のスタートは意外なものであった・・・
石川収容所で終戦を迎えた後、舞台女優を目指して劇団に入門を試みるが、どこも不採用。
歌や舞踊の経験がない幸子を雇ってくれる劇団は無かった。
入団を断る劇団の中には幸子の容姿を批判する者もいた。
それでも挫けずに、幸子は憧れの舞台に少しでも近づくため、”飯炊きでもなんでもやります”と熱意を伝え、ようやく南月舞劇団に入団。
しかし、雑用をこなしながら掴んだ初の舞台は散々なものだった、
無銭飲食をする客を捕まえる女中の役だったが、緊張のあまり声がうまく出ず、観客からはヤジられる始末・・・
”喜劇の女王”と呼ぶには程遠い有り様だった。
めげずに稽古に励む毎日・・・そんな幸子の前にある男が現れる。
後に夫になる男で、ともに劇団でいご座を旗揚げすることになる”仲田龍太郎”。
容姿端麗で標準語を操るインテリ肌の役者だった龍太郎に幸子は惹かれていくのだった。
一方の龍太郎も、失敗してもめげずに励む幸子に惹かれ、1948年に結婚。
1956年には二人で劇団でいご座を結成! これが”喜劇の女王”誕生のきっかけとなる。

言わずと知れた”喜劇の女王”誕生の裏に何があったのか?そんな彼女の信念とは?何が彼女を突き動かすのか?
そのほか、仲田幸子のチューバー列伝はこちらをご覧ください。
「アメリカ世」から「ヤマトの世」へ!「復帰」という時代の大転換の荒波の中、様々なジャンルで沖縄のために奮闘した「強者(チューバー)」たちの熱い物語を、沖縄テレビが記録したアーカイブ映像や、証言をもとにしたドラマで振り返る!
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