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金城眞吉~40人の全国王者を育てたボクシング界の名伯楽~【オキナワ強者(チューバー)列伝】
1972年5月15日、沖縄は日本復帰。あれから50年という歳月が流れた。
戦後、アメリカの占領統治下での苦難を乗り越え「復帰」にたどり着いた沖縄。
世紀の「世替わり」の裏側では、時代を切り拓いた「強者(チューバー)」がいた!
「世替わり」という激流の中で奮闘した「強者」の姿にスポットを当てる!
※チューバー:琉球語で「強い」「強がる」「気が強い」「勇気がある」の意
今回は「スポーツ」をテーマに、県民に勇気を与えた”具志堅用高”を伝説のチャンピオンにした強者2人をご紹介。
石垣島出身の少年がいかにして伝説のチャンピオンになったのか!?具志堅と2人の強者との出会いからすべては始まった!熱い男たちの物語!
具志堅用高を強者にした強者(チューバー)2人目は、金城眞吉!!
金城眞吉は、那覇市首里出身。
興南高校、沖縄尚学高校で45年も監督として指導し、40人の全国王者を輩出した。
その実績からJOC五輪強化コーチも歴任。
金メダリストの村田諒太も金城眞吉から指導を受けていた。
熱血指導の名伯楽
「ヤマトンチュ、マキランケー!(本土の人に負けるな!)」
その言葉で自身が大学時代に本土で経験した”本土との壁”を、沖縄のボクシング少年たちに熱く伝えた。
自宅を改装してまで作り上げたボクシングジムでは選手たちと寝食を共にし、徹底的にボクシングを指導!
興南高校、沖縄尚学高校をボクシング部監督としてわたり歩き、多くの全国王者を輩出。
その中の一人が伝説の世界チャンピオン具志堅用高。
初めて臨んだ試合の記憶はほとんどなく、その代わり、勝利後の金城眞吉監督の笑顔だけは強烈に覚えている。と具志堅用高は当時を振り返る。
その言葉に表されるように選手達からは恐れられる一方、信頼も厚かった。
熱血指導で具志堅用高の才能を引き出した「金城眞吉」。 金メダリストになれ!そう具志堅用高に伝えるのだが・・・
そのほか、伝説のチャンピオンにまつわるチューバー列伝はこちらをご覧ください。
「アメリカ世」から「ヤマトの世」へ!「復帰」という時代の大転換の荒波の中、様々なジャンルで沖縄のために奮闘した「強者(チューバー)」たちの熱い物語を、沖縄テレビが記録したアーカイブ映像や、証言をもとにしたドラマで振り返る!
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