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上原勝榮~具志堅用高に独自指導!~【オキナワ強者(チューバー)列伝】
1972年5月15日、沖縄は日本復帰。あれから50年という歳月が流れた。
戦後、アメリカの占領統治下での苦難を乗り越え「復帰」にたどり着いた沖縄。
世紀の「世替わり」の裏側では、時代を切り拓いた「強者(チューバー)」がいた!
「世替わり」という激流の中で奮闘した「強者」の姿にスポットを当てる!
※チューバー:琉球語で「強い」「強がる」「気が強い」「勇気がある」の意
今回は「スポーツ」をテーマに、県民に勇気を与えた”具志堅用高”を伝説のチャンピオンにした強者2人をご紹介。
石垣島出身の少年がいかにして伝説のチャンピオンになったのか!?具志堅と2人の強者との出会いからすべては始まった!熱い男たちの物語!
具志堅用高を強者にした強者(チューバー)1人目は、上原勝榮!!

上原勝榮は、現在の那覇市若狭にあった銭湯”若松湯”の主で、兄弟にはWBA世界スーパーフェザー級王者の上原康恒と、日本フェザー級王者のフリッパー上原を持つ。
銭湯に下宿していた”具志堅用高”に独自の指導方法でボクシングの基礎を叩き込んだ。
現在、若松湯があったとされる通りは「ボクシング通り」と名付けられている。
独自の指導方法はまさに”ベスト・キッド”!?
石垣島から那覇へ進学した具志堅用高にタダ同然で下宿を認め、その代わり銭湯の手伝いとボクシングの練習を課した。
ボクシング経験は無かったものの、空手の鍛錬を応用した独自の指導方法で具志堅用高を指導。
銭湯の掃除すらボクシングを意識した独特な方法だった。
そんな勝榮の口癖は「ひとの真似をするな」「人が一つやるなら三つやりなさい」
その言葉で負けん気と根性を叩き込んだ。
具志堅用高が高校3年生でインターハイで優勝すると、ボクシング業界は具志堅用高の卒業後の動向に注目。
プロデビューして欲しい上原勝榮はある計画を練っていた・・・

独自の指導法で具志堅用高を育てた若松湯の主「上原勝榮」。彼との出会いが具志堅用高の人生を大きく変える事に!
そのほか、伝説のチャンピオンにまつわるチューバー列伝はこちらをご覧ください。
「アメリカ世」から「ヤマトの世」へ!「復帰」という時代の大転換の荒波の中、様々なジャンルで沖縄のために奮闘した「強者(チューバー)」たちの熱い物語を、沖縄テレビが記録したアーカイブ映像や、証言をもとにしたドラマで振り返る!
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