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OTV報道部

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日の丸に抱いていた県民感情の変遷と「幻の建議書」

2022年5月15日、沖縄は本土復帰から半世紀の節目を迎えた。
OKITIVEでは復帰企画第2弾として5月15日に沖縄テレビで放送した特別番組「復帰50年未来へ」をテキスト化して随時公開していきます。
今回は、「日の丸を巡る県民感情の変遷」と「幻の建議書」 です。

那覇市上山小学校での日の丸の掲揚式。教職員、児童たちは感慨深げな表情をしている。

アメリカの統治下にあった沖縄では、日の丸を掲げることは許されず、1961年になってようやく祝祭日に公共の建物に限って掲揚が認められた。(祖国復帰闘争史、日の丸掲揚に関するアメリカの規制が撤廃されたのは1969年)

そのため、「日の丸」は復帰運動のシンボルで、祖国復帰協議会の結成式にも欠かせないものだった。

沖縄近現代史研究の第一人者、新崎盛暉さんは生前こう振り返っている。

沖縄近現代史研究の第一人者 故・新崎盛暉氏
「そういう米軍支配下から抜け出して、戦後生まれ変わった日本に復帰するということのひとつのシンボルに日の丸はなったということですね」

また、「日の丸」とともに復帰運動で民衆の間で盛んに歌われた歌がある。「沖縄を返せ」だ。

曲・沖縄を返せ
固き土を破りて、民族の怒りに燃ゆる島 沖縄よ

「日の丸」と「沖縄を返せ」は、アメリカ施政権下の沖縄と本土が分断された北緯27度の見えない境界線で国頭と与論の船が結集し、沖縄の祖国復帰や返還を訴えた海上集会でも見られた。

異民族支配からの解放を求めたシンボル、「日の丸」と「沖縄を返せ」だが、次第に復帰運動の舞台から姿を消すことになる。その理由は、復帰の在り方が明らかとなった為だった。

1969年、佐藤・ニクソン会談で沖縄の返還に当たっては、「核抜き・本土並み」とすることで一致。沖縄の人たちが復帰に託したアメリカ軍基地の全面返還は叶わなかった。

沖縄近現代史研究の第一人者 故・新崎盛暉さん
「現実には平和憲法下への復帰ではなくて、基地を丸ごと維持して沖縄にそれを集約する形での復帰、そして自衛隊も配備されるという形は当然受け入れられないということで、これに対する反発が強まって日本のシンボルである日の丸そのものが、消えていったということになりますね」

基地の無い平和な島を望む人々の想いが全く汲まれていない復帰の内実に、琉球政府は危機感を抱いていた。当時、琉球政府の職員だった平良亀之助さんだ。

琉球政府元職員 平良亀之助さん
「我々の要求というものが、そう簡単に日本政府に取り入れられているとは思えないようなものが色々な情報から入ってきて、とてもじゃないがこの内容で復帰をさせられたら沖縄は立ち行かないんじゃないかというのがあって」

復帰が迫る1971年10月、琉球政府は「復帰対策要綱点検プロジェクトチーム」を発足させた。平良さんはその一員として、返還協定や復帰後の法案に、沖縄の人々の切実な想いを反映させるため「建議書」の作成に奔走した。

琉球政府元職員 平良亀之助さん
「時間がない。総点検作業に取り掛かってくれと。泊まり込みで徹夜体制でみんな必死になってやった。建議書の柱は何といっても基地のない平和な島を構築するというのがこの全体の柱といっていいいんです」

建議書の策定にあたり、約一か月で基地問題や社会保障など7つに渡る項目を132ページにまとめた。1971年11月、屋良主席は建議書を携え、復帰問題を審議中だった国会に行くため上京した。

しかし…

屋良主席が羽田に向かう飛行機の中、国会では沖縄返還協定が強行採決された。

琉球政府元職員 平良亀之助さん
「この建議書は届かなかった、いわゆる門前払いされた。正直怒りというのは当然だよね。怒りだから私の5月15日は『怒り』と、もうこれから一体どうなるんだと沖縄の要求を全く無しに、いわゆる第三の琉球処分と言われた通りの形で」

幻となった建議書は今でも、基地に翻弄され続ける沖縄の苦悩を象徴している。

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