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OTV報道部

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沖縄県知事選挙の歴史を紐解くと浮かびあがる県内政局の変遷

本土復帰から50年の節目を迎える2022年、最大の政治決戦、沖縄県知事選が9月11日に控える。この50年で初代県知事の屋良朝苗から8人の県知事が誕生し、県土の発展・県民生活の向上に取り組んできた。

「保守」と「革新」が県民の支持を2分して繰り広げてきた政治闘争

戦後27年に渡るアメリカ統治から1972年に本土復帰を果たした沖縄で最重要とされる政治課題は2つ。
その一つが日本の高度経済成長から取り残された沖縄の経済振興、もう一つが本土復帰後も残る広大なアメリカ軍基地の問題だ。

沖縄の政治を語るときによく出てくる言葉に「保守」と「革新」がある。
大まかな概念で両者を分けると、「保守」は経済振興により重きを置き、「革新」は基地問題に力を注いできた。
沖縄の政治をみると、国内・国政政治とも連動しながら、県民は「経済」を取るか「基地問題」を取るかの選択に迫られてきた一面がある。

第1回県知事選挙は 革新側の屋良朝苗が圧勝

1972年5月15日の沖縄県発足により、初代県知事となったのは革新側の屋良朝苗。
本土復帰にともなう琉球政府行政主席からの就任による「みなし知事」であったため、復帰直後の72年6月に県内で初めてとなる県知事選挙が繰り広げられた。
基地問題への対応に重きを置く屋良は、保守側が擁立した大田政作に7万票あまりの大差で圧勝する。
4年後の第2回県知事選挙では屋良の後継として出馬した平良幸市が勝利し、革新県政が引き継がれる事になった。

第1回県知事選挙(1972年6月)
当 屋良朝苗(革新)  251,230  
落 大田政作(保守)  177,780

第2回県知事選挙(1976年6月)
当 平良幸市(革新)  270,880
落 安里積千代(保守) 238,283

西銘知事が誕生 保守が県政奪取し3期12年の保守県政へ

本土復帰を果たしたものの依然として本土との経済格差は縮まらない現状があった。
加えて、1975年の沖縄海洋博覧会では入場者は振るわず事業者を落胆させ、その後も深刻な不況は続いた。こうしたなか実施された県知事選挙では、保守側が西銘順治を擁立して県政を奪取する。西銘は元衆議院議員として培った政府とのパイプを活かして、10年の時限立法だった沖縄振興開発特別措置法を延長させるなど実績を積み上げて3期12年に渡る長期の保守県政を築く。

西銘は保守だが、基地問題について疎かにしていたわけではない。
日米安保を容認しつつも、過重な基地負担については日米両政府に改善を要求していた。
沖縄県知事として初めて訪米したのも西銘が最初だった。
時代の経過とともに「保守」と「革新」による政策の距離感は縮まりを見せていた。

第3回県知事選挙(1978年12月)
当 西銘順治(保守) 284,049
落 知花英夫(革新) 257,902

冷戦が終結し新たな時代の幕開けに期待 革新が再び県政奪還

1989年にベルリンの壁は崩壊し東西ドイツの統一へと繋がるなど
第2次世界大戦後から続いていたアメリカとソ連による冷戦は終結を迎えた。
これにより沖縄の基地負担の軽減につながるのではないかと、県民の間でも期待感が広がった。
こうしたなか迎えた1990年11月の第6回県知事選挙では、革新側が擁立した元大学教授の大田昌秀が4期目を狙う西銘に勝利し、12年ぶりに革新が県政を奪還した。
大田は2期8年間知事を務めることになる。

第6回県知事選挙(1990年11月)
当 大田昌秀(革新) 330,982
落 西銘順治(保守) 300,917

大田県政2期目の1995年に米兵による少女暴行事件が起きる。
衝撃的な事件に県民は憤り超党派による県民大会が開かれ、基地の整理縮小の機運が一気に高まる。事態打開に向けて日米両政府は1996年のSACO最終報告で、普天間基地を含む11施設の返還に合意。しかし、返還合意から26年が経過するが普天間基地の返還は実現をみていない。

「県政不況」経済界が一致団結、保守が再び県政奪還

1998年の県知事選挙では元りゅうせき会長の稲嶺恵一が出馬を表明し、3期目を目指す大田と激しい選挙戦を繰り広げる。
民間の土地を米軍が強制使用する手続き「代理署名」拒否をはじめとする基地問題への対応で国と県との関係の冷え込みがみられるなか、稲嶺は県の厳しい財政運営を「県政不況」とアピール、3万7千票あまりの差をつけて大田を破り、保守が再び県政を奪還する。稲嶺は2期8年、そして、稲嶺県政の継承・発展を訴えて後を継いだ仲井真弘多も2期8年務める

第8回県知事選挙(1998年11月)
当 稲嶺恵一(保守) 374,833
落 大田昌秀(革新) 337,369

第10回沖縄県知事選挙(2006年11月)
当 仲井真弘多(保守) 347,303
落 糸数慶子(革新)  309,985

1998年の県知事選からは普天間基地の移設問題が争点となる。
稲嶺知事は「軍民共用」「15年の使用期限」の条件付きで本島北部での建設を容認。
仲井真知事は「県内移設容認」としながらも名護市辺野古のV字案には反対。
いっぽうで修正案には応じる姿勢を見せていた。
2009年に民主党政権誕生で鳩山首相(当時)は「移設先は最低でも県外」と明言。
これを受けて仲井真知事は県外移設を公約としたが、その後、鳩山首相が辺野古に回帰する。
移設問題が大きく動いたのは2013年、政府は辺野古公有水面の埋め立て申請を県に提出。その年の暮れ、仲井真知事がこれを承認した。
埋立てを承認したことに県議会野党からは「公約違反」だとして仲井真知事へ辞任を求める決議を賛成多数で可決。仲井真知事は「基地負担軽減や沖縄振興といった公約の実現にまい進する」として辞任する考えはないと述べた。

新たな政治潮流 オール沖縄の誕生

これまで「保守」と「革新」による政治闘争が繰り広げられたなか、新たな政治潮流が誕生したのが2014年の県知事選挙での翁長雄志の勝利だ。
翁長は自民党沖縄県連の幹事長を務めるなど生粋の保守政治家だが、2007年の高校歴史教科書検定で沖縄戦の集団自決について日本軍強制の記述が削除・修正された問題では、記述の復活を訴えた。また、2012年のオスプレイ配備では、国に撤回を求める建白書の共同代表を務めるなど超党派の先頭に立って行動してきた。
第12回県知事選挙では、那覇市議会の保守系市議、経済界の一部が早々に翁長擁立に動くなか、翁長は革新側が歩み寄れる最大公約として「辺野古移設阻止」を掲げて共闘体制を構築、保革が相乗りする「オール沖縄」をつくりあげる。
選挙では現職の仲井真に約10万票の大差をつけて初当選を果たした。

第12回県知事選挙(2014年11月)
当 翁長雄志(オール沖縄) 360,820
落 仲井真弘多(保守)   261,076

普天間基地の辺野古移設問題を巡っては、翁長知事が公有水面の埋め立てを取り消すなどして国との法廷闘争に発展。
1期目の任期最終年の2018年に膵臓がんが発覚し、翁長は死去。
翁長の遺志を継ぐ玉城デニーが2018年の選挙で初当選を果たす。
新たな政治潮流となった「オール沖縄」だが、いっぽうで反オール沖縄を表明する市長たちからなる「チーム沖縄」が誕生。
2018年の名護市長選挙で辺野古移設反対の現職が敗れたほか、国との法廷闘争が繰り替えされる事にこれまで支援してきた経済界も「オール沖縄」を離脱するなど退潮が指摘されている。

復帰50年節目の年の県知事選挙 県民の下す決断は

普天間基地の移設工事で辺野古への土砂投入が始まってから3年8か月が経過した。
大浦湾側に軟弱地盤が見つかり、国は工事の設計変更を県に申請しているが、県はこれに応じず法廷闘争が続いている。
また、長引く新型コロナウイルスの影響で沖縄県のリーディング産業である観光をはじめ県経済は疲弊している。

県知事選の歴史を振り返ってみると、県民は選挙の度に「経済」か「基地」どちらにより重きを置くかで悩んで決断し、自らのリーダーを選んできた。
復帰50年の節目に行われる今回の県知事選挙、沖縄の未来を託せる候補は誰なのか選挙戦の火蓋が切られた。

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