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OTV報道部

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「沖縄のために」経営の神様“稲盛和夫” は沖縄に寄り添い経済発展に尽力 思いやりに満ちた経営哲学が根底に

京セラとKDDIの創業者で経営破綻した日本航空を再建した稲盛和夫さん。経営の神様と呼ばれた稲盛さんは、県経済の発展にも大きな足跡を残していた。稲盛さんが掲げた経営哲学はどう花開いているのか。

「沖縄が好き」そして「沖縄の役に立ちたい」

2022年8月24日、老衰のため90歳で亡くなった稲盛和夫さん。日本を代表するリーダーである稲盛さんは沖縄にも思いを馳せていた。

稲盛和夫さん
「私は沖縄が大変好きでございまして、最近は1局集中の進む中で、ローカルが地方が栄えていく、発展しなければ、日本の繁栄はないと思っておりまして、何とか沖縄のためにまた地方のために、役立つことはないかと思っておりまして」

1990年。本土復帰から18年が経ち、社会資本の整備は進んだものの、失業率の高さや所得の低さが大きな社会課題だった沖縄。

本土との経済格差を縮めようと日本を代表する企業のトップと、沖縄の財界人が発足させた沖縄懇話会のメンバーに稲盛さんも加わった。

稲盛さんの沖縄への熱い思いに多くの企業が賛同

沖縄側から参加していたのは、当時、りゅうせきの社長で後に県知事となった稲嶺惠一さんだ。年齢が近く、公私ともに懇意にしていた稲盛さんの死を惜しんだ。

元県知事 稲嶺惠一さん
「大変ショックは受けましたね。私自身もやっぱり稲盛さんのあの考え方ね、哲学っていうのは大事に思っていましたし、それから頭の中に肝に銘じていたところもあったんでね」

1990年10月。後のKDDIとなる第二電電企画の会長だった稲盛さんは沖縄懇話会の設立総会で会場が驚く提案をした。

稲盛和夫さん
「沖縄のための携帯電話会社をつくる」

それから8か月後の1991年6月、稲盛さんの熱意に多くの県内企業が賛同し、沖縄セルラー電話が誕生した。

元県知事 稲嶺惠一さん
「沖縄に本社を作るっていうことをはっきり明言されたわけですね、会社を作ると、それは地元のためになると」

当初は九州の支店にする案もあったが、稲盛さんが真っ先に行動に移し、種をまいてくれたことが、沖縄側の結束にも繋がり、沖縄を代表する企業が芽吹いた。

「すべての人に感謝の心を持って生きる」

稲嶺さんは沖縄セルラー電話の初代社長に就任。事業が軌道に乗るまでの間、無報酬で引き受けていた。

元県知事 稲嶺惠一さん
「私自身もそういうその稲盛さんの志に対して協力したいということがあったんでね、そういう意味では、非常に思い出深い社長人生でしたね」

稲盛さんとの関係を深めていく中で、出身地の鹿児島を離れ、就職先の京都で苦労を重ねた経験を聞き、その考え方の根底にあるものを感じ取っていた。

元県知事 稲嶺惠一さん
「苦労されたっていう方がやっぱりですね、多くの人の心の痛みっていうことをよく知っておられるわけですよ、沖縄の人たちのですね、戦争を受けたこの苦しみとか、悩みとかですね、それを感じておられてたんじゃないかな」

苦難の人生を這い上がってきた稲盛さんの経営哲学の一つ「利他の心」。

自分を犠牲にしてでも他の人を助けるというその精神は思いやりに満ちていた。

稲盛和夫さん
「最初にやっぱり感謝するって言いますかね、愚痴も不平不満を言わないで、どんな逆境にあろうともどんな境遇にあろうとも、周囲の人に全てのものに感謝の心を持って生きて行けばみんなから支援を受ける人間になれるのではないかと思っています」

激しく移り変わる世の中でも社会全体の利益になることを

設立から30年。沖縄セルラー電話は携帯電話事業で沖縄県内シェアの5割を占めるまでになった。

これまでの企業活動のバックボーンには稲盛さんの経営哲学が生きていた。

沖縄セルラー電話 菅隆志 代表取締役社長
「『心を高める』、経営理念として『事業を通じて沖縄経済の発展に貢献する』と、創業以来ですね、それをベースにですね、経営してきた」

激しく移り変わる世の中にあっても、社会全体の利益になることを共に創っていく考え方だ。

沖縄セルラー電話 菅隆志 代表取締役社長
「利益をいかにやはり地元沖縄に還元していくかということでですね、少しでもやはり沖縄の抱えている課題解決に向けてですね、貢献できるようにしている」

共感を呼ぶ経営哲学を持ちたぐいまれな手腕をふるってきた稲盛さん。本土との経済格差を抱えていた沖縄に寄り添い、大きな功績を残した。

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