コラム
妊活時・出産・育児における夫婦間パートナーシップの変化
目次
妊活モチベーションを維持する方法
読者の皆さん、はむはー!(『とっとこハム太郎』坪井リツ子著)
実は、年始から「オスカル」と命名したハムスターを家族に迎えていることを内緒にしていたのですが、夫がハムスターのクオリティ・オブ・ライフにはまっているので、日本を代表するハムスター漫画『とっとこハム太郎』の挨拶をオマージュしました。(昭和挨拶ネタが尽きたともいう。)
常夏の島・沖縄も10月にはいり、朝夕の風は涼しく感じられるようになりましたが、日中は紫外線が厳しい!昔から「色白は七難隠す」といいますし、紫外線対策に余念のない日々を送っております。
さて今回のテーマは
「妊活・出産・育児における夫婦間パートナーシップの変化」
という内容です。
このコラムを読んでくださっている読者で「満足度の高いパートナーシップ」を築いている方は、どのくらいいらっしゃるのでしょうか?
いま、たかーく挙手してくださった方々に関してはおめでとうございます!
お互いを決して離さず、末長くお幸せに!(←)
3回目までのコラムで、私や夫が結婚早々に“妊活(不妊治療)”をスタートすることになったことや、当時の妊活に付随してきた様々なプロセスについて書きつづってきました。
私の場合、 “夫婦二人の時間を充実させたい”という気持ちが大きかったことや、キャリアを積みたい30代半ばの大半を不妊治療に捧げることに抵抗感があり、それを多少なりとも引きずりながら、やや後ろ向きな気持ちで妊活に当たっていました。
そのような低いテンションでも何とか妊活に励むことが出来たのは、年に一度は夫婦で“妊活休暇”を設け、旅行に出かけてはリフレッシュすることが出来ていたからだと思います。純粋に夫婦で過ごす時間を楽しみ、旅先での体験や会話を通じて、お互いのパートナーシップの再確認をしていたのでしょう。
さらにいえば当時、手当たり次第に読んでいた“妊活が成就する方法”のいくつかの願かけ的なアクションとして、「旅行をする」「引っ越しをする」「寝具を変える」など風水的な要素も楽しみながら取り入れていました。
いま振り返って、それらのことが先の見えない妊活のモチベーションに繋がっていたのだと思います。
妊活中の夫婦仲はどうして悪くなる?
当時、夫は低いテンションの私に対して「無理を強いる」ことは一切しませんでした。それには理由があります。
責任感が強く真面目で働き者の彼(夫)は、「いずれ家を継ぐ家長として、子どもがほしい」という気持ちを持っていました。ですが、どんなに医学やテクノロジーが進化した現代においても、「妊娠」は女性一人では無理なことだと、十分理解している人でもあったのです。
「何をそんな、わかりきったことを」と思われる方もいるかもしれません。それでもその事実をなぜわざわざ書くのか。それは、妊娠・出産が男女の共同作業という事実が薄れてしまうくらい、こと妊活においては「女性側」が病院に行く回数が多く、そのぶん負担も大きくのしかかってくるからです。
具体的には
・生理周期に合わせて病院に通う負担
・人工授精にステップアップすると、排卵日に合わせ夫の精液を病院に持参する負担
・体外受精では女性の体から卵子を取り出す負担
などが挙げられます。
私がフルタイムの仕事を諦めて、フリーランスという働き方を選択したのも、「子どもを授かるためには、孕む性である私」が、妊娠できるタイミングで通院することが第一条件だったことが理由です。
この“女性側の負担”は、少しずつ心をむしばんでいくものです。
当時、私たち夫婦は「子どもを授かること」にプライオリティを高く置いていました。そのため自分自身、多少の負担に納得していました。ですが、思うように妊娠に至らない焦りの中で、思うように仕事もできずキャリアも積めず、フラストレーションばかりが募っていきました。
その結果、私の負担を理解して無理を強いず、パートナーシップを築いているはずの夫とも「つい些細なことで喧嘩になる」のは日常茶飯事でした。
不妊治療がうまく進まなければ離婚していた
妊活モヤモヤ3年目、38歳のころ。
私たち夫婦は高度生殖医療を受けるべく、当時「妊娠成就率が高い」と評判だった糸満市の“アルバクリニック(現:八重瀬町「空の森クリニック」)に転院しました。
妊活をスタートした35歳からすでに3年経過していることもあり、割と早い段階で顕微授精を提案されました。担当医の指導どおりに採卵、受精卵の凍結というステップを踏み、その年の12月初旬に1回目の顕微授精を行いました。
総額50万ほどの費用がかかった高度生殖医療。当然、期待も大きくなります。
その年のクリスマス・イブ、担当医の口から聞かされたのは「残念な結果」でした。世間のお祝いムードを他所に、涙にくれる年末を過ごしたことを覚えています。
それから数ヶ月。子宮を休ませて、体調を整えて挑んだ2回目の顕微授精も撃沈・・・。
この頃、凍結卵子が残り少なくなってきました。私たち夫婦は「子どもを授かれなかった場合の将来」について、話し合うようになっていました。
まずは「養子縁組」が選択肢に上がりました。私も夫も何日もかけて養子縁組に関して調べました。そうして話し合った末、「お互いの遺伝子を継いだ子ども」でなければ愛情を持って育てる自信がない、という話になりました。
では、その「お互いの遺伝子を継いだ子ども」を授かることが出来なかった場合は・・・?これについては「離婚」も視野に入れようという結論になったこともありました。
当時の私たち夫婦は30代後半。妊活成就率の可能性がギリギリ残された年齢でした。そのため私は、「一族を連綿と受け継いでいく」役割を背負っている夫にとって、もしかしたら私と別れて新しい女性と結婚したほうが、子どもに恵まれるかもしれないという思いを抱えていました。
また「家父長制」が根強い沖縄長男の家に嫁いだ私自身も、「子どもを産むことが出来なかった嫁」として、彼の妻で居続ける未来を考えると、どうしても明るい将来を思い描くことができませんでした。それほど精神的に追い込まれしまっていたのです。
さらに、妊活中(不妊治療中)に最も辛かったのは、妊娠・出産した友人たちを心から祝福できなくなってしまった事。私は学生時代から仲良くしてきた友人たちとの付き合いを控えるようになり、どんどん自分の存在に価値を見出せなくなっていました。
当時を振り返ると、今でも心が締め付けられる思いが蘇ります。
そのような精神状態に陥った私に対し、夫は根気強くサポートしてくれました。私が精神的に追い詰められて「離婚」を切り出した時も、
「俺には別れる気持ちはないが、それで君の気持ちがすこしでも楽になるなら・・・。」
と、しぶしぶ承知しているような状況でした。責任感が強く、良くも悪しくも“古風”な考え方をする彼にとって「結婚した女性と別れる」こと自体、考えられなかったのかも知れません。
そんな綱渡り状態の夫婦の関係性のなか何とか続けた妊活5年目、40歳になった年。幸いにも、3回目の顕微授精で双子の妊娠が成就したときには、妊活をスタートしてはじめて嬉し泣きの涙を流したことを、私は一生忘れないと思います。
これからのパートナーシップについて思うこと
私は5年間の妊活を経て、幸いにも3回目の顕微授精で双子を授かり、いまは育児に向き合う日々を過ごしています。そのなかで夫婦のパートナーシップは現在、子どもを中心とした「ユニット」へと変化したような気がします。
正反対の性格の私たち夫婦には子どもを授かった現在でも様々な課題がありますが、夫はどんな状況でも全力で子ども達の成長に向きあい、育児においても全面的に協力してくれます。
そしてその愛情に応えるかのように「パパ大好き!」な双子を見ていると、この人(夫)は父親になるべくしてなった人だな・・・と、しみじみ思うのです。
私たち夫婦がよく話すのは、「長い人生において私たちのパートナーシップにどんな変化があろうとも、二人の間に生まれてくれた双子の健やかな成長を願い、協力しながら人生を歩んでいくことは一生涯、変わらない」ということ。
“多様性”という言葉が一般化してきている昨今。これから出会うであろう多種多様な価値観に、私自身がフレキシブルに対応できる姿勢でいたいものですね。
そして私たち夫婦のパートナーシップも同じように、双子の成長や世の中の動きに合わせて柔軟に変化していけたらと思っています。
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