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OTV報道部

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「読谷村楚辺集落」強制立ち退きの記憶 苦難の歴史を後世に伝えるために

読谷村の楚辺集落は戦後、アメリカ軍のトリイ通信施設の建設に伴い住民たちは立ち退きを余儀なくされた。
強制的な立ち退きから2022年で70年の節目を迎え楚辺自治会ではこうした歴史を後世に伝えようと企画展が開かれた。

70年の節目に開いた企画展

2022年11月、読谷村の楚辺公民館で始まった企画展。
会場には戦前の集落の写真や映像が流され、懐かしんだり興味深そうに観賞する人々の姿があった。

企画展に訪れた方
「自分が生まれたところが強制的に移転させられたっていうので、移転させられた人にとっては思いがすごくあると思うんですよね」

企画展に訪れた方
「強制移住させられて70年っていう歴史を見ると(先人たちは)大変なことをされてきたんだなっていうのがよく分かりますね」

「アメリカ軍が入って来ないように松を立てた」

かつての集落の光景を感慨深そうに見つめる1人男性がいる。元楚辺区長の池原玄夫さんだ。

元楚辺区長 池原玄夫さん
「大変ですね。良く集めましたね」

沖縄戦で、アメリカ軍が最初に上陸したのは読谷村で楚辺の人々は上陸前に国頭村などに避難を余儀なくされた。

元楚辺区長 池原玄夫さん
「松を切ってこっちに立てたんですよ」

──アメリカ軍が入ってこないように?

元楚辺区長 池原玄夫さん
「アメリカ軍の船が来ないように(松を)みんなずっと立てたんですよ」

終戦から6年 再び故郷を追われる

「鉄の暴風」と表現される苛烈な地上戦によって焦土となった沖縄。
終戦後、池原さんをはじめ人々が楚辺に戻ることを許されたのは約2年後の1947年だった。

元楚辺区長 池原玄夫さん
「うちの三男ですけど、うちのおふくろは子供抱いて帰ってきたんですよ。だから早く帰りたいみんなそう思っていたんですよ」

生まれたばかりの弟を抱いて故郷に戻ろうとする母親の姿を池原さんは、今でも鮮明に覚えている。
全ての失った所から少しづつ復興していった矢先集落に激震が走った。

元楚辺区長 池原玄夫さん
「大騒ぎですよ。どうするんだろうという事で」

終戦から6年後の1951年。アメリカ民政府は楚辺一帯に軍の通信施設現在のトリイ基地を建設することを決め住民たちへ立ち退き命令を出した。

当時の陳情には故郷を再び追われることになる住民たちの悲痛な思いが綴られている。

元楚辺区長 池原玄夫さん
「祖先並びに我等が築き上げた居住地を去らなければならぬことは、我等の最大の悲痛であります」

元楚辺区長 池原玄夫さん
「年寄りなんかは農業しないと食っていけないし。みなさん軍作業はあるんですけど1か月、煙草1ボール(10箱分)しかないですからね」

しかし、こうした思いが顧みられることはなく、この年(1951年)の12月に工事が強行された。

元楚辺区長 池原玄夫さん
「前(旧集落)は22の小字があったんですよ。もうこれだけですよ、4つくらい(4つの字)に押し込められているんですよ」

トリイ基地は集落の7割と大部分の面積を、占め追い詰められた約400世帯の住民は今から70年前の1952年、追いやられるように現在の集落へ移動を余儀なくされた。

基地と共に生きていくしかなかった 翻弄された暮らし

立ち退きによって住み慣れた家のみならず、生活の糧だった農地まで手放す事を強いられた人々は生活を維持していくために基地内で耕作を続けるいわゆる「黙認耕作地」をなんとか条件付ける。

しかし、軍の裁量によって黙認耕作地への立ち入りを禁じられることもあり人々の生活は翻弄された。

元楚辺区長 池原玄夫さん
「向こうは閉めようと思ったらすぐ閉めるんですよ。そしたら作っている芋から農作物みんな取れないでしょ。お手上げですよ」

強制的に故郷を追われながらも生活のために背に腹は代えられないと、楚辺の人々は苦悩しながら基地と共に生きていくしかなかった。

元楚辺区長 池原玄夫さん
「向こうが(基地内が)本当は中心ですからね。開放出来ないからこそ、仲良くして黙認耕作地を認めてもらわないといけないわけよ」

苦難の歴史を忘れずに紡ぐ

強制移転から70年という歳月を経った2022年も、フェンスの向こうでは生活のために農業を営む人々がいる。池原さんは楚辺の先人たちが歩んだ苦難の歴史を忘れず紡いでいきたいと語る。

元楚辺区長 池原玄夫さん
「戦後生まれの人たちにウチが知っているのを伝えていく。今度の企画展でも区全体もそうだけど、子供達でも楚辺に対して興味を持ってもらったらそれでいいと思うんですよ」

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