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Vamos a オキナワ!

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サンパウロのウチナーンチュの心の支えはディスコクラブだった!?【Vamos a OKINAWA!】(#2ブラジル・サンパウロ篇)

「第7回世界若者ウチナーンチュ大会」を通して出会った、沖縄出身でペルー留学中のみーゆ(銘苅実祐)、ウルグアイ留学が終了したばかりのずっきー(鈴木礼)、カナダに留学中のロジーニャ(與崎夢乃)、ブラジルのカンポグランデ出身で沖縄県系3世のジュリ(大城ジュリアネ)の現役大学生4人による、世界の「オキナワ」を探す旅”Vamos a OKINAWA!第2回目はブラジル・サンパウロ篇。

目次

最初の目的地はブラジル・サンパウロ

今回の旅、最初の目的地はブラジル・サンパウロです。

みなさんは、「ジャポネス・ガランチード(japonês garantido)」という言葉をご存知ですか?このブラジル・ポルトガル語の言葉と、みなさんお馴染みの言葉「イチャリバチョーデー」は、ブラジル・サンパウロの日系社会の歴史を理解する上でのキーワードになります。

サンパウロはご存知のとおり、南米の最大国・ブラジルの商業中心地、つまり、南米の最大都市です。
実は、そんなサンパウロは日系社会として世界最大といわれています。
なぜ115年もの長い年月を、地球の裏側のサンパウロで日系やウチナーンチュが活躍し続けているのか。
その疑問に答えてくれたのが、今回お話しを聞くことができた戦後移民のウチナーンチュ、棚原さん夫妻でした。

戦後移民の夫婦に聞くサンパウロのウチナーンチュ

第二次世界大戦後、貧困を極めていた沖縄から移住を考えた当時18歳の棚原栄一さんは、1961年に単身で自由移民としてブラジルに上陸しました。それから3ヶ月間、養鶏場を営むウチナーンチュのもとで働き、独立後は繊維、パステウ(ブラジルの揚げ物の軽食)、建材、金物と職種を変えていきます。
職種が何度も変わってしまう不安定な生活を支えたのは、「イチャリバチョーデー」だと、栄一さんは語ります。アラブの卸商から高い仲介料を取られていた当時の繊維業は、ウチナーンチュ同士でミシンをおたがいに貸しあって乗り切ったといいます。
さらに、時間の経過とともに”ウチナーマーケット”、つまりウチナーンチュの商売コミュニティが形成されていったそうです。

また、ブラジルでは戦前移民を「旧移民」、戦後移民を「新移民」と言います。
棚原さん夫婦は「新移民」にあたります。お二人は口を揃えて、自分たちに仕事があったのは、旧移民が築いた日本人への信用「ジャポネス・ガランチード(japonês garantido)」のおかげだと言います。
このコラムの文頭でも引用した「ジャポネス・ガランチード(japonês garantido)」は、「日本人は盗まない、裏切らない、よく働く」という信頼を表した言葉です。
背景にあるのは、ブラジル人と他国の移民から信用を築いてきた、旧移民の方々の努力です。移民したての日本人は、ブラジル・ポルトガル語を理解できなかったので、よくブラジル人や外国人に騙されていたといいます。にもかかわらず、自分たちは誠実でいることを貫いた、「ジャポネス・ガランチード」。これは今日もサンパウロの日系社会を支え続けています。

1970年に、栄一さんはブラジルに家族を呼び、ブラジルに永住し続けることを決意します。この時に、妻である光子さんとも知り合いました。当時、郊外に住んでいた光子さんとは「漫画の貸し借り友達」だったのだとか。当時のサンパウロの若者ウチナーンチュの青春は、日活や東映の映画館や、日曜日の夜だけ「バイレ」となる沖縄県人会館。バイレとはディスコやクラブのようなものです。週に7日、毎日休みなしで働いていた若者は、「バイレ」を糧にして働いていたそうです。お二人は、沖縄の陽気な「ノリ」は、ブラジルにも生きていると語ります。

棚原さん夫妻が沖縄からブラジルに移住することを決意した当時の沖縄の様子、そしてブラジルの様子を2時間以上かけてじっくりお話してくださいました。

ブラジルでの生活を送る中で、沖縄に帰りたくなったことはないかと尋ねると、栄一さんは「恋しいと思ったことはない」と言います。続けて、移住当時の過酷な労働も「周りがやってるから辛くなかった」と言いきります。
「イチャリバチョーデー」と「ジャポネス・ガランチード」の存在が、サンパウロのウチナーンチュを支えていた大きな存在だったのです。

移住115年を迎える、サンパウロのウチナーンチュは、ウチナーンチュとブラジル人の2つのアイデンティティを持っている人がほとんどです。
光子さんは、学生時代、日葡辞典を使うと「もう日本人じゃないだろ」と怒られたといいます。しかし、サンパウロのウチナーンチュは、子孫が日本人、ウチナーンチュであるというアイデンティティを失わないために、日本語教育に力を入れてきました。その結果、ほとんどの2世の方々は日本語を理解しています。また、若い世代が多い3世にも、沖縄の芸能や文化、日本語を学ぶ熱意を持っている人が多くいるのです。その次世代の「ウチナーンチュ・パウリスタ(サンパウロ人)」に対し、棚原さんご夫妻は「2世、3世はよく頑張っている」「悪い子はいない」と笑顔を見せます。きっと、彼らにサンパウロのウチナーンチュ社会を託すことができると信頼しているのでしょう。

移民110周年で建立された「リベルダーデ日本アフリ広場」の石碑

今回のインタビューの中で、お二人は「いま沖縄に帰ったところで世間知らずなだけだから帰らないけどね〜。」と冗談を言っていましたが、その笑顔には、激動の時代を戦後移民としてブラジルで生きてきた誇りと、お二人の強さが滲んで見えました。

温かいおもてなし

私たちは、世界若者ウチナーンチュ大会のメンバーを通して、沖縄県費市町村研修生のOB・OGからなる「うりずん会」のみなさんと出会うことができました。
彼らは、滞在中の3日間ずっとわたしたちを歓迎してくれ、お仕事の休憩時間に来て一緒にランチをしてくれたり、いろいろなところに連れて行ってくれたりしました。

うりずん会のメンバーの方々が、平日のお昼にも関わらず、お仕事のお昼休憩の時間に駆けつけてくれました。

最終日には、朝4時に空港に連れて行ってくれて、私たちがゲートに入って見えなくなるまで、一緒にいてくれました。空港で、うりずん会メンバーのエイコさんとダニーロさんに、「どうしてこんなにしてくれるの?」と率直に聞くと、「自分たちが沖縄に行ったときにも、こうして最後まで見送ってもらったから、その恩返しだ」と答えてくれました。

私たちは、その沖縄で彼らを迎えたメンバーではありませんが「自分たちの恩を次の世代へと受け継いでいく」、ウチナーンチュの相互扶助精神を感じます。
きっと、そんな気持ちが、これまで沖縄と世界のウチナーンチュのネットワークを構築させてきたのかもしれません。このネットワークを次に繋ぐ世代の私たちも、この心を忘れてはいけないと思いました。

Obrigada, São Paulo!!

サンパウロの街の一コマ

週に1度行われるという地域のマーケットには、ゴーヤーが”Goya”の表記で売られていました。販売している方にも、沖縄の苗字を持つ方が多くいました。

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