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OTV報道部

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沖縄戦の激戦地南部で住民560人の命を繋いだ権現壕 命の尊さを伝える感謝祭

1945年の沖縄戦で激戦地となった本島南部の糸満では、当時の住民の4割近くが命を落とした。その糸満で、地域の住民560人全員を救った「感謝の場所」として、慰霊祭ではなく感謝祭が開かれる壕がある。

壕の中で戦火を逃れた男性の証言と、感謝祭の様子を取材した。

感謝の壕と呼ばれる潮平権現壕

2023年6月、糸満市潮平区の住民総出で行われた清掃活動。集落のはずれにある壕の周りで草刈りをしていた金城暁さん。

金城暁さん
「戦争のときに、先祖が生き長らえさせてもらったっていう感謝の壕です」

住民を巻き込んだ地上戦で、県民のおよそ4人に1人が命を落としたといわれる沖縄戦。

最も多くの犠牲者を出したのが沖縄本島の南部地域だ。
なかでも糸満市では、およそ2万3000人の住民の4割近く、8500人が亡くなった。

鉄の暴風が吹き荒れた本島南部で住民たちを守り、「感謝の壕」と呼ばれているのが、「潮平権現壕(しおひらごんげんごう」だ。

金城幸雄さん
「ウヤファーウジ、つまりご先祖様がこの壕で生き延びたから現在の我々がいるわけです。もう壕に対して感謝です。それ一言です。感謝ですね」

住民560人は突如、日本軍によって追い出される

「潮平権現壕」は糸満市阿波根(あはごん)にある全長240メートルの自然壕。

アメリカ軍が沖縄に上陸する前の年の1944年、避難場所を探していた住民が発見した。

金城暁さん
「はじめは入り口しかなくて、出口がなかったです。みんなで壕の中で鉦(かね)を叩いて太鼓を鳴らしながら、音が聞こえるところを(外から)手掘りして、出口を作りました。それなりの避難壕として部落が作った壕なんです。自然壕ではあるんですけど」

潮平区民は空襲警報を合図に壕に避難し、その後自宅に戻っていたが、アメリカ軍機による空襲が激しくなった1945年の3月23日から壕の中に身を寄せ、家族とともにそこで生活をするようになった。

壕の中では560人がひしめき合って暮らしていた。

当時4年生だった金城正篤(せいとく)さん(88)。

金城正篤さん
「僕らはだいたい真ん中くらい、この辺にいたと思います」

金城さんは母と祖父母、叔母の4人で暮らしていた。

金城正篤さん
「戦争が激しくなると避難壕の中でご飯を炊いたりします。煙がもう大変です。壕の中に充満して。たいへん苦しかったです。また、夜はちょっと外へ出て空気を吸うような生活でした」

1945年4月、アメリカ軍が沖縄本島に上陸。

苛烈(かれつ)な攻撃で大打撃を受けた日本軍は、司令部を放棄して南部に撤退し、徹底的な持久戦で更に多くの住民が戦争に巻き込まれた。

金城正篤さん
「一週間に1度か2度、2、3人の兵隊が戦果報告に来ます。日本軍が勝った話をします。だから住民は入り口の方に集まって、『ああ、日本は勝ち戦をしているんだ』と思っていました。で、そういう矢先に退去命令が来たんです」

日本軍が南部に撤退するころの5月下旬、3人の日本兵が壕にやってきた。

「この壕を日本軍の陣地として明け渡せ」

突如として壕を追い出された住民たち。
他に身を隠せる場所を探しましたがあてもなく、「どうせ死ぬなら潮平で」という思いで翌日、壕へ戻った。

するとそこに日本兵の姿はなかった。

金城正篤さん
「僕はこのことは確認していないので、推測ですけれど、(日本兵が)避難壕立ち退きを強制的にさせたのは、ひょっとして何か、特に食べ物が欲しかったのだと思います。食料品は持ち去られていたのではないかと想像しています」

住民たちは壕での生活を再開したが、食料は少なく、人々は衰弱していった。

ある日、投降を呼びかけるアメリカ兵に応じて、一部の住民が壕を出た。

旧暦の5月5日、1945年6月14日のことだった。

金城正篤さん
「その日はものすごく強烈な日が差していました。6月の真夏の太陽が眩しくて、目も開けられないくらいでした。暗闇で生活していましたから」

のちに、壕に隠れていた人々も外に出て、560人全員が捕虜になった。

戦後、住民たちは壕に感謝の思いを込めて、鳥居と権現之碑を建てた。

「権現(ごんげん)」とは、菩薩(ぼさつ)が現れ民衆を救うという仏教の言葉で、住民が救われ平和な世を迎えた、という意味が込められている。

命をつないだ権現壕 平和の尊さを次世代に

旧暦の5月5日にあたる2023年7月22日、権現壕では感謝祭が開かれた。

住民や近くの保育園児が参加し、テーブルの上にごちそうや紅白まんじゅうを並べて、命をつないでくれた壕に手を合わせる。

命の大切さ、平和の尊さを子どもたちにも伝える大切な行事。

新型コロナの影響で縮小を余儀なくされ、4年ぶりの開催だった。

金城正篤さん
「戦争体験をした人たちもほとんどいなくなっています。だから、この体験をどう受け継いでいくかは課題です。(保育園児たちは)親はもちろん、そのおじいちゃん・おばあちゃんも戦争体験をしていないかもしれません。僕らがちゃんと言い伝えていかないといけません」

命をつないだ権現壕は、78年たった今も住民たちをそっと見守っているようだ。

金城正篤さん
「窮屈で退屈な場所ではあるけれども、命が救われました。よく潮平の長老たちが言います。『戦後の潮平の区民はね、ここから生まれたんだよ』と」

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