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「血と硝煙の混じるにおいは数か月こびりついた」息子と娘は直撃弾で犠牲に沖縄県史に残る証言から遺骨のDNA鑑定
3年前の2020年に糸満市の壕から発見された沖縄戦当時の遺骨について、身元の特定につながる可能性のある証言が見つかった。
遺骨を遺族に返すために活動するボランティアが、証言からたどり着いた遺族の思いを伝える。
「骨がなくて石しかない」「みんな寂しがっていた」
2023年7月14日、遺骨収集ボランティアの浜田哲二さんと律子さんは、沖縄戦の戦没者遺族の元を訪ねていた。
佐次田敏也さん
「テレビをつけたときに放送していて、途中から見ていました。お袋とか亡くなったおばあちゃんの話を前に聞いていたので、もしかしたらと思いました」
遺骨と遺族を結びつけるDNA鑑定の実施を呼びかける浜田夫妻を報じた沖縄テレビの放送を見て、電話をくれた佐次田敏也(さじた としや)さん。
佐次田良子さん
「探せるのでしたらいいですけどね」
母親の良子さん。兄が沖縄戦で亡くなった。
佐次田敏也さん
「石ころを拾ったということは聞いていました」
佐次田良子さん
「行方がわからなくて、石をお墓に入れた人はたくさんいるじゃないですか」
佐次田良子さん
「一生懸命探してくれるということは、本当にすごいです。偉いです。みな、帰ってこなかったことをとても寂しがっていました。石しかなくて、骨がなかったので」
子どもの遺骨からDNA抽出は初めて
20年以上前から毎年沖縄を訪れている遺骨収集ボランティアの浜田哲二さんと律子さんは、沖縄での活動の拠点となる事務所兼自宅を構えた。
浜田哲二さん
「全く時間が足りないです。毎回、後ろ髪を引かれる思いで帰らざるを得ないです。遺骨を掘り出すだけではなくて、沖縄のご遺族と直接向き合う取り組みが必要になってきました」
青森県に住む2人は、毎年およそ2カ月間沖縄で遺骨収集を行い、残りの期間は自宅のある青森県を拠点に日本軍の兵士の遺族を探す活動を続けてきた。
こうした活動の中、2020年から2021年にかけて糸満市照屋と国吉の壕から掘り出した遺骨12人のうち、5人が子ども、3人が成人女性であることが、2023年に入り明らかとなった。
浜田律子さん
「お子さんの遺骨からもDNA抽出できたのは沖縄で初めてです。女の人である、お子さんの遺骨であるといったことを(厚生労働省が)教えてくれたということが大きかったです」
子どもや女性という民間人の可能性が高い遺骨が、なぜ軍が使用していた壕から見つかったのか。
沖縄県史に残る2人の幼子を亡くした母の証言
浜田哲二さん
「(掘り出した遺骨が)沖縄の人としか思えませんでした。私が先生にお尋ねしようと思ったのは、先生がこの状況をどう見ておられるかということです」
意見を聞きたいと訪ねたのは、沖縄戦の研究者で沖縄国際大学名誉教授の石原昌家さん。
沖縄国際大学名誉教授 石原昌家さん
「これは『沖縄県史・沖縄戦記録2』ですが、こちらに照屋という地名が出てきます」
遺骨が見つかった糸満市照屋という地名から取り出したのは、石原先生が体験者から聞き取りを行い編さんした沖縄県史だ。
沖縄国際大学名誉教授 石原昌家さん
「直撃弾を受けて、自分の子どもを2人亡くして、半狂乱状態になっていきます。そのとき彼女は妊婦です」
現在の那覇市首里大名町から戦禍を逃げまどい、糸満市照屋で2人の幼子を亡くした母親の証言だ。
松本チヨさんの証言(沖縄県史から)
「長男を抱きかかえている私の体に、血がタラタラと流れ落ちていきました。娘は背中が半分以上やられていて、やっとのことで胴体が繋がっているという有様(ありさま)でした」
「子どもたちから流れ出した血と硝煙の入り混じる匂いは数カ月たってもこびりつき、体を洗っても落ちなかった」とつづられている。
この証言が見つかったことで、子どもの遺骨の身元の特定に向けた動きが大きく進むことになる。
「両親はきょうだいが戦争で亡くなったことを語ることはなかった」
糸満市照屋で見つかり、子どもであることが判明した遺骨の遺族を探す浜田哲二さんと律子さん夫妻。
沖縄戦の証言をもとにこの日訪れたのは那覇市首里大名町だ。
浜田哲二さん
「これお母様ですよね」
松本實秀さん
「そうそう僕のお袋だね」
浜田哲二さん
「沖縄県史に出てくる内容が、今回見つかったご遺骨の状況と非常に重なり合うことがあるんです」
県史に証言を残していた松本チヨさんの三男、松本實秀(まつもと じっしゅう)さん。
戦後生まれの松本さんに対し、両親は、兄弟が戦争で亡くなったことを語ることはなかったそうだ。
松本實秀さん
「僕の上の兄貴は次男です。でも長男として育って、僕も次男として育ってきました。今まで(亡くなった兄弟のことは)あまり話さなかったんです。石原昌家さんが僕の家に来て、取材しているとき、僕は遠くから覗いていました」
さらに、チヨさんの証言では、大名地区の住民の多くが糸満市照屋に避難していたと記され、大名の自治会史にも照屋や国吉などで30人以上が糸満市周辺で命を落としていることが記録されている。
「複雑だけど一致してほしい」「ちゃんと供養できるし」
後日、DNA鑑定申請書を記入してもらうため、再び松本さんを訪ねた。
浜田律子さん
「死亡場所が糸満市照屋ですね」
4歳だった姉、2歳だった兄、それに祖父と叔母、4人に対してのDNA鑑定の申請書を記入した。
松本實秀さん
「遺骨が見つかったと言ったら、(他界した)両親がとても喜ぶのではないかなと思います。少し複雑だけど、でもやはり一致してほしいなという思いはあります。そうしたら、ちゃんと供養ができますし」
沖縄戦から78年が経過しても遺骨が戻ることを待ち望む遺族、そして激戦地だった場所からは今も遺骨が見つかる現状がある。
浜田律子さん
「遺骨に砲弾の欠片が刺さっていたりする場面もあります。そういうことは、体験者が少なくなっていく中で、新たな証言としての役割を担っていくのではないかと思っています」
遺族の心情に加えて、史実として沖縄戦を伝えていくこと、そして。
浜田哲二さん
「沖縄に軍備を再配備しようとしていることは、戦争を体験された方々にとっては胸が張り裂けそうなことでしょう」
浜田哲二さん
「78年前の戦場で何があったか、そこでどんな悲惨で凄惨(せいさん)なことがあり行われたのか、遺骨収集を通して多くの人たちに伝えることしか私たちはできないです。新たな戦争が起こらないように、この活動を続けて事実を伝えていくことが私たちの仕事ではないかとよく話し合っています」
ボランティアの活動は、新たな悲しみを生まないための活動としても意味を持ち始めている。
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