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OTV報道部

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強制された「自死」愛する家族を殺さなければ…平穏な島でなぜ。命を救った母の叫び

耳をつんざく手りゅう弾の爆発音、互いの首を絞め、鍬や鎌を手に殺し合う人々。
手を下すのは愛する家族同士でした。

太平洋戦争末期、沖縄県渡嘉敷島などでは住民の強制集団死、いわゆる「集団自決」が起きました。

LINEニュース コラボ 2023年8月
観光で人気の渡嘉敷島

今年85歳になる体験者の吉川嘉勝さんは、兄が自爆のために手にした手りゅう弾が不発に終わった後、母の発した魂の叫びで自決を思いとどまりました。

母ときょうだいに手をかけた金城重明さんは、苦しみ続けながらも生涯を通して証言を続けました。

なぜ、愛する人同士で殺し合う悲劇は起きてしまったのでしょうか。

吉川さんの命を救った母の言葉とは、金城さんが語り続けた訳とは。

2人には、どうしても後世に伝えたいことがありました。

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集団自決跡地で手を合わせる吉川嘉勝さん

沖縄本島の西にある渡嘉敷島は、清水が豊富で山すそまで水田が続く豊かな島です。

1944年(昭和19年)の人口は1300人余り。カツオ漁が盛んで、渡嘉敷の鰹節は良質で天皇にも献上されました。

男たちはカツオ漁で収入を得て、女性たちは米やサツマイモを栽培していました。

吉川嘉勝さん(当時6歳)は「当時では珍しかったと思うが、毎日三食米が食えた。」と暮らしぶりを振り返りました。

自然に恵まれた穏やかな暮らしに戦争の足音が近づいていました。

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沖縄戦の図(佐喜眞美術館蔵)

島にやってきた日本軍

1944年9月、日本軍が島に駐屯を始めると、国民学校の生徒まで動員して陣地構築が行われました。

配置されたのは海上特攻隊、250キロの機雷を装備し敵艦に体当たり攻撃を仕掛けます。沖縄本島に迫る米軍の船を背後から攻撃する作戦でした。

吉川さんの家の近所には兵舎がありました。暮らしていたのは若い兵隊たちで、姉と一緒にサツマイモを差し入れるとお礼に日本酒の一升瓶を持たせてくれました。持ち帰った酒を父が大事そうに毎晩少しずつ飲んでいたのを吉川さんは覚えています。

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米海軍が撮影した渡嘉敷島(沖縄県公文書館所蔵)

1944年10月10日に大規模な空襲(10・10空襲)に見舞われてからは、防空壕と家を行ったり来たりする暮らしになりました。

優しかった父、厳しかった母

吉川さんの父はカツオ漁船の頭領で朝から漁に出て夕方帰ってきました。8人兄弟の末っ子の吉川さんにとって父はいつでも甘えられる優しい存在でした。

姉たちに聞くと、厳格で怖い存在だったと話したのが意外だったといいます。

「お父さんはまるで孫みたいにあなたを可愛がっていたよ」と姉たちは話しました。

吉川さんの記憶では厳しかったのは母の方でした。喧嘩をして家に帰ると、事情を聴いた母に「あなたのここが悪い」と𠮟られました。

「普通なら子どもをかばいますよね」と笑う吉川さん。のちに家族の命を救った母は正義感の強い誠実な人でした。

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父・次良さんと母・ウシさん

小学校入学を控えていた吉川さんに両親はランドセルを買ってくれました。

当時ランドセルは高価で、離島の渡嘉敷島では手に入りません。吉川さんは末っ子でしたがお下がりではなく、新品だったといいます。

ランドセルだけでなく筆入れとノートも買ってもらいました。父が自分の為に取り寄せてくれたそれらは、幼心にとても大切なものだったと記憶しています。

宝物だったランドセルの思い出は生涯忘れられない悲しい記憶と共にあります。

“自決”の場に向かうあの日、母にはランドセルを置いていくよう言われましたが、吉川さんは嫌だと言って拒みました。

母は根負けし、吉川さんはランドセルを持っていくことにしました。「それぐらい愛着があったんだ」。吉川さんはそう言って悲しい記憶をたどります。

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渡嘉敷島上陸へ作戦を練る米軍

1945年3月27日には渡嘉敷島に米軍が上陸。島民は日本軍から島の北部にある北山(ニシヤマ)に集まるよう命令されたといいます。

命救った「母の叫び」

駐留していた防衛隊から『米軍が島の南から上陸してくるから、全員ニシヤマ(北山)に集まれ』と報せがありました。

『赤松隊長(日本軍)の命令だ』と聞き、父と母、きょうだい達と一緒に山へ向かいました。

雨の中、大切なランドセルを背負った吉川さんを、姉がおんぶしていました。姉は当時22歳で、女性で作る青年団の副団長をしていました。

山につくと、数百人の住民がひしめきあっていました。

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やがて、当時の村長がみんなを集めて何かをしていました。
そのうちみんな『天皇陛下万歳、万歳』と言って万歳三唱したあと…爆発音がしました。

『バンバン』となる手りゅう弾の爆発音が、非常に印象に残っています。

兄の勇助が、手りゅう弾を2個持って『わったー(自分)もやるよ』と言ってピンを抜きました。

でも一発目は爆発しませんでした。

『じゃあもう一つあるからやるよ』と言ってピンを抜いたけれど、同じように爆発しませんでした。

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戦後の遺骨収集で見つかった手りゅう弾の残骸

手りゅう弾が2つとも使えなったので、父が「直接火を点けて投げ込もう」と提案しました。

その時、母が大声で叫びました。「勇助、手りゅう弾は捨てろ」

母は方言で叫びながら、年上のいとこの後を追って逃げるよう皆を説得しました。

「人間は、死ぬのはいつでもできる、みんな立て。」その時の母の凄まじさを、吉川さんは鮮明に覚えています。

『命どぅ宝やさ』と母が言うと、みんな立って歩き始めました。周りにいた人達も一緒に50人ぐらいで北山を逃げ出しました。

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2023年の慰霊祭

集団自決が起こっている山から逃げた吉川さん一家。
しかし、爆弾の破片が飛んできて吉川さんの少し前を歩いていた父の頭に当たってしまいました。

「親父が頭をやられて、頭が破裂して倒れて、一言『ウーン』とうなって終わり」父はその場で亡くなりました。

吉川さん一家はもう動かない父を置いて逃げ、その後5ヵ月以上山の中で避難生活を送りました。

生き残ることへの恐怖で命を絶った

住民330人が命を絶った渡嘉敷島の「集団自決」では、軍から配られた手りゅう弾のおよそ半数が不発だったといわれています。

死ぬことができなかった家族は親子、きょうだい同士で鎌や鍬で殴り合ったり縄で首を締めたりと互いに手をかけたのです。

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金城重明さん

吉川さんと同じ場所にいて、家族に手をかけながらも生き残った金城重明さん(当時16歳)は「住民を危険な場所へ移動させる、手りゅう弾を配るなどの行為は軍の関与無しではあり得ない」と、軍の命令こそが「集団自決」の決定的な引き金だったと証言します。

集められた住民は“自決”の命令を待ち、表立って異を唱える人はいませんでした。

村長に命令が出たという伝達があった直後、天皇陛下万歳の三唱と共に「集団自決」が始まりました。

「まず母に手をかけ、それから弟妹。もちろん自分達も死ぬつもりでね。どこにも殺意は無いですよ。殺したい人もいない、死にたい人もいない。」

金城さんは、300人以上の住民を死に駆り立てたのは「生き残ることへの恐怖」だと語ります。

皇民化教育により国のために命を捧げることは美徳とされ、米兵に捕まった男は拷問、女は強姦されると教えられていました。生き残ると悲惨な目に合うと恐れていた渡嘉敷島の住民は、愛する家族だからこそ必死になって命を絶ったのです。

「自分を産んでくれた母の首を絞めた、石をつかったかもしれません。私は号泣しました、母も泣いていた。きょうだいも手にかけた。その後のことはよく覚えていません。」

地獄のような光景の中で金城さんは、どうせ死ぬなら米兵を殺してから死のうと思い立ちました。
生き残った兄と2人で敵兵を探して山を降りましたが、避難生活の途中で捕虜となり生き延びました。

戦が去った後も、故郷の山で見た悲惨な光景が金城さんを苦しめ続けました。

「傍から見れば加害者としか見られない。やっぱり手をかけたという事実がありますから。私はやっぱり苦しむ訳ですよ。」

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金城さんが牧師を務めた教会

金城さんは渡嘉敷島を離れて沖縄本島に渡り、牧師の道を選びました。

「集団自決」については口を閉ざす人が多い中、金城さんは自分が家族に手をかけたという事実を隠さず語り部となり、辛く悲しい記憶と向き合い続けたのです。

一方、吉川嘉勝さんは戦後、沖縄本島で中学理科の教師として定年まで勤めていましたが、自身の体験を生徒たちに語ることはほとんどなかったといいます。

「集団自決において、被害者であると同時に加害者である方も少なくないわけです。だからこれまで語ってこなかった。みんな沈黙を通してきた。思い出したくもないと同時に語りたくもない。こういう厳しい精神的な葛藤があった。」

しかし2007年、吉川さんは「集団自決」を語り始めました。

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教科書検定意見撤回を求める県民大会(2007年)

高校の歴史教科書から「集団自決に日本軍が関与した」という記述が削除され、主語が無い文章「集団自決が起きた」と書き換えられたことがきっかけです。

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記述が変更された教科書

「今回の教科書検定の問題、これはずっと自分が気にしていたことが現実になって、もう黙ってはおれんと」

文部科学省の検定意見の撤回を求める県民の怒りは大きなうねりとなり、11万6千人以上が集まった県民大会に発展しました。

「配備された日本軍の関与がなければあのような集団自決は絶対に起こっていません。歴史を歪曲する集団自決の改ざんを許してはなりません。」

吉川さんはこの日をきっかけに自身の体験を語り始め、10年以上にわたり平和ガイドを続けています。

語り始めたもう一つの大事なきっかけ、それは母・ウシさんの山の中での行動です。

「思い出したくもない喋りたくもないという中で喋り出した根底は、母の当時多くの人を救った(あの言葉)。その背景があって喋り出したと思う。僕は母の勇気ある行動、これはもう限りなく誇りに思い、母をずっと尊敬していたもんだから」

証言者が一番恐れていることとは

集団自決に軍の命令や関与があったかという議論は1980年頃から裁判で争点となり、金城重明さんは度々法廷で証言をしていました。

当時、日本軍の守備隊長だった男性やその遺族は、慶良間諸島の集団自決に「軍の命令は無かった」と主張し、集団自決について記載されている本(沖縄ノート・大江健三郎著)の出版差し止めなどを求めていました。

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裁判に向かう金城さん

2007年9月に開かれた裁判では、集団自決について証言する金城さんに対し1時間に渡って反対尋問が行われ、金城さんの記憶は曖昧で軍命があったというのも個人的な意見に過ぎないと反論されました。

「苦しいですね。証言をしますとね、記憶をたどって語るわけですから。あの地獄のような恐ろしい場面を連想するわけですよ。集団自決に関する裁判では非常に精神的な疲労感、それが高まっていたのは事実。」

金城さんは日本軍が駐留しなかった島(粟国島や前島など)では集団自決が起きておらず、軍の指示なしで住民が勝手に手りゅう弾を配って使うことはあり得ないと指摘します。

金城さんは自ら命を絶つ「自決」という言葉ではなく、「強制集団死」という言葉を使い、住民が命を絶ったのは軍の強制であるという事実を歪めてはいけないと訴えました。

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取材を受ける金城さん(2017年)

同じ渡嘉敷島の住民でも、人によって戦争体験は違います。

生き残った住民の中には日本軍に生きのびるべきだと諭された人もいて、「軍命」が無かったという証言があるのも事実です。

しかし金城さんが恐れていることは、様々な戦争体験がある中で一方の証言だけが採用され、悲惨な体験が国の力によって消し去られてしまうことです。

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渡嘉敷島内の集団自決慰霊碑

金城さんは2022年に死去。晩年は那覇市内で妻と穏やかな日々を送りながら、メディアからの取材には体力の続く限り応じました。

最後の取材となった2017年、「若い人たちに伝えていかなければ、命の尊さを」という金城さんの言葉には憤りが込められていました。

吉川さんは渡嘉敷島を訪れる修学旅行生らに、今も証言を続けています。

家族や親族、同じ地域に住む人々が互いに手をかけた忌まわしい出来事を記憶する人は少なくなりました。記憶があっても語る事の出来ない体験者もいます。

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修学旅行生にガイドをする吉川さん

悲劇を語り継ぐため、吉川さんは証言を収集し冊子にまとめました。二度と戦争の悲劇を繰り返してはならない。吉川さんの強い思いが封じられた記憶を歴史として後世に伝えています。

沖縄周辺では中国の軍事的な動きを警戒し「台湾有事」がクローズアップされています。宮古島や石垣島、与那国島で急速に進められる自衛隊配備、政府は国防の重要性を強調します。

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石垣島の民間地に展開する自衛隊の迎撃システム

有事の際に逃げ込むシェルター構想について、吉川さんは「現代的防空壕」と表現します。

「最近の国の動きは戦争へと向かっているようだ。台湾有事と恐怖心を国民に与えて自衛隊施設を次々と作っている。嫌な感じがする。」

戦争によって奪われた幸せな暮らし、そして愛する人たち。

戦争の歴史からどう教訓を学び、悲しい体験を語る先人から何を託されてきたのか、私たちは問われています。
(沖縄テレビ 山城志穂 川平菜菜子)

※この記事は沖縄テレビ放送によるLINE NEWS向け共同企画です。

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