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OTV報道部

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【沖縄の基地問題】過去18年間 自民党派閥と基地移設(普天間基地・辺野古移設問題)の経過をOTV報道部がなぞる

「沖縄を思う心」とは何だったのか “沖縄の痛み 心からお詫び申し上げる”から始まった会談

1996年1月、梶山静六官房長官(当時)は、首相と沖縄県知事の会談の様子をこう語った。当時の首相は橋本龍太郎(経世会・現茂木派)。橋本は普天間基地返還の日米合意を主導していたが、普天間基地を閉じるための条件は、基地機能を沖縄県内へ移設することだった。

画像:橋本 大田会談

橋本は地元の合意を得るため、県知事の大田昌秀と面談を重ねた。自民党のタカ派で知られていた橋本だが、沖縄については「お詫びの心」を口にしていた。沖縄戦や戦後の米軍統治など苦難の歴史に特別な思いを抱いていたことはよく知られている。若手議員時代には米軍潜水艦によって沈められた学童疎開船・対馬丸の遺族に対する補償に熱心に取り組んだ。

1996年当時の自民党内には橋本をはじめ、戦中戦後と沖縄が歩んだ苦難の歴史に思いを寄せる政治家が健在で、基地問題や振興などあらゆる面で「沖縄を思う心」が政治の場面に作用した。

画像:小渕 稲嶺

橋本の次に総理となった小渕恵三(平成研)も“沖縄を思う”一人だ。

小渕は時代が昭和から平成へと移った際に官房長官として新元号を発表、「平成おじさん」として知られる。小渕が“沖縄族”となったのも沖縄戦に由来する。戦況悪化のなか県民の苦境と後世の特別な配慮を求め「沖縄県民斯ク戦ヘリ」と打電した大田實海軍中将に感銘を受けたという。小渕が派閥会長を務めた経世会は「平成研究会」(平成研)へと名称を変えた。

小渕は官房長官の野中広務と共に2000年の主要国首脳会議(サミット)の沖縄開催を主導した。野中は沖縄の米軍基地の維持に関する特措法改正の際に「この法律が沖縄県民を軍靴で踏みつけるような結果にならないように」と沖縄への配慮を示し「若い皆さんにお願いしたい」と異例の発言をしている。

沖縄県知事は保守系の稲嶺恵一に代わっていた。稲嶺は大田県政の際に持ち上がった海上施設案ではなく、海を埋め立て軍民共用空港にすると打ち出した。さらに使用期限を15年と区切ることで将来的に県民空港へと切り替え、沖縄本島の北部振興を図る狙いだった。
小渕政権は15年の使用期限にはあいまいさを残したものの、稲嶺の希望を盛り込み閣議決定した。
守礼門をあしらった2000円札の発行や米国・ハワイ州の大学と連携した教育プログラム「小渕沖縄研究プログラム」の創設にも尽力したが、在任中に病に倒れ帰らぬ人となり、沖縄サミットへの出席は叶わなかった。

小渕の死去後、野中ら自民党有力者が後継首相にしたのは森喜朗だ。これを機に長きにわたる経世会・平成研から自民党主流派が清和会へと移ることになる。
森は現在、安倍派最大の後ろ盾として自民党内に隠然たる影響力を持つ。
森は首相就任後、教職員組合や沖縄のメディアについて「共産党が入り込んでなんでも政府に反対する」と言い放った。

画像:森喜朗

また、「神の国発言」など舌禍が絶えず、内閣支持率は続落。自民党内では加藤紘一(宏池会)が野党の内閣不信任案に同調し倒閣を仕掛ける(加藤の乱)など、党内での不和が目立った。

森内閣の総辞職を経て行われた自民党総裁選は当初、橋本龍太郎の再登板との見方が有力だったが、政局の混乱から「自民党刷新」の機運が高まっていた。
そこで「自民党をぶっ壊す」と旧来の派閥政治からの脱却を掲げた旋風を巻き起こしたのが小泉純一郎だった。ここから本格的な自民党の清和会支配が始まる。

この動きは、政府・自民党と沖縄との関係にも変化を生じさせていく。

画像:小泉純一郎

“変人総理”の沖縄政策 県外移設言及も

小泉純一郎は清和会の5代会長を務めた。
「自民党を変える」と派閥人事を排し、女性閣僚は過去最多の5人を登用。
宿願の郵政民営化を巡っては、党内の反対勢力の選挙区に刺客を送り込んだ。外交では北朝鮮の金正日総書記を電撃訪問し、拉致被害者の帰国などを実現させた。

2004年10月、小泉は東京都内での講演で普天間基地の代替施設の移転先を県外で検討すると言及した。前年に同基地を視察した米国防長官のラムズフェルドは「世界一危険な基地」と指摘、2004年8月には沖縄国際大学に米海兵隊の大型輸送機CH-53Dが墜落した。小泉は普天間基地の県外移設を検討するよう防衛庁や外務省に指示した背景には、米国の軍事戦略の変化を好機とみていたからだ。

2001年に起きた米国同時多発テロの後、米軍は軍事的脅威が認められた地域に緊急展開できる即応性を高めるため、必要性の低い基地の統合を含めた再編計画の検討を始めた。小泉は抑止力を維持しながら負担軽減の方法を模索した。しかし、候補地に挙げられた自治体の反発は想像を超え、2005年6月23日に執り行われた沖縄全戦没者追悼式典に出席した小泉は、沖縄の基地負担軽減について「総論賛成・各論反対」と述べた。沖縄の淡い期待は霧散した。

沖縄全戦没者追悼式典(献花する様子)

地元頭越しの日米合意

小泉政権では移設計画自体もさまざま変遷する。辺野古沖合案は環境問題や反対行動によって現場調査がたびたび中断を余儀なくされた。
2005年10月、日米両政府はキャンプ・シュワブの辺野古側に加え、大浦湾側も埋め立てる沿岸案(L字)で合意した。まさに地元の頭越しの合意だった。

小泉は当初、シュワブ陸上案を構想していた。「環境派と闘ってはダメだ。市民運動は怖い」。自身の選挙区で環境団体を抑えきれなかった経験からだった。厳しい交渉では日米双方が修正案を提示し、最終的に米側が譲歩した。ここから国と県の関係は暗転する。稲嶺はすぐさま反対を表明。県議会や名護市議会も受け入れ反対を決議し、2006年3月には県民総決起大会が開催された。しかし時の政権にも政府内にも、沖縄を省みる気配はなく、強権的な動きだけが際立っていく。

防衛官僚が主導

日米両政府による地元の頭越しでの移設案。これを主導したのは防衛官僚だった。防衛庁の事務方トップである事務次官だった守屋昌武に、首相の小泉は全幅の信頼を置いていた。
そして守屋は日米安保が政治に左右され、さらに反対行動によって移設計画そのものが停滞する様を苦々しく思っていた。L字案の合意に至る経緯で守屋が推していたのはキャンプ・シュワブ陸上案。小泉は守屋の提案を支持していた。しかし日米交渉の過程では突如、「名護ライト案」が浮上し、外務省や米国政府、与党の重鎮を巻き込んで激しい駆け引きが起こった。

L字案

浅瀬を埋め立て1500メートルの滑走路を建設するこの案について、守屋は沖縄の建設業者の暗躍があったと著書で指摘している。守屋の目には移設計画が沖縄側の利権にからめとられていると映った。さらに保守県政の下で遅々として移設作業が進まない原因は、これまでの政権が地元の意向を汲みすぎているからだと考えていた。その考えは徐々に政権中枢にまで浸透する。L字案は県も名護市も反対する事は明らかだった。

守屋武昌

2006年4月7日、防衛庁で7回目の協議が行われた。焦点は2本の滑走路の位置だった。L字案への反発を避けるため、政府はL字から2本の滑走路をX字に変更する案を密かに作成していたが、その案は事前に地元首長に漏れていた。協議は冒頭から荒れ、名護市側は「名護ライト案」に近づけようと沖合移動を求めた。

名護市を「二枚舌」と批判する守屋は協議の前に、名護市以外の北部首長らに協力を求めていた。振興策に影響が出ることへの懸念から首長らは守屋に同調する構えで、名護市の包囲網は縮まりつつあった。
守屋が講じた「地元の分断」はこの後、さまざまな場面で用いられ、政府の沖縄対策の常とう手段となっていく。修正案はV事案として決着した。

V字案

2006年5月、日米両政府は米軍再編最終報告でV字案に合意した。政府は名護市・米国と2つの合意を取り付け、沖縄県の対応が注目された。
知事の稲嶺が選挙公約に掲げていた既に「軍民共用空港」や「15年の使用期限」が消滅している。
県はキャンプ・シュワブ陸上部への暫定ヘリポート案を持ち出すが、一蹴される。稲嶺は「基本確認書」などの書類にサインしたものの、合意文書への署名を拒み抵抗を見せた。記者会見で稲嶺は政府案について「合意していない」と述べたが、この時点で任期満了の勇退を表明していた。実質的に政府の手法に陥落した。

 守屋の強硬な姿勢は、現場の反対行動の市民に対しても同様だった。2007年5月、政府は辺野古沖合に海上自衛隊の掃海艇を投入。抗議行動を封じる為だった。
首相は清和会の安倍晋三。小泉政権で官房長官を務めた。第二次政権では強烈な官邸主導で長期政権を築いた安倍だが、当時は小泉政権の方針が踏襲されていた。

県知事は稲嶺と同じ経済界出身の仲井真弘多へと代わった。政府の手法を仲井真も批判したが、守屋は意に介さなかった。同年11月、守屋は防衛装備品の納入を巡る汚職で逮捕、首相の安倍は持病を理由に就任から約1年で退陣。政権は同じ清和研の福田康夫に代わるが短命政権に終わった。続く麻生政権で総理・総裁派閥は一時的に清和会から変わったが2009年の総選挙で自民党は歴史的大敗を喫し下野した。

鳩山首相・仲井真知事

政権を手にした民主党は鳩山由紀夫が県外移設を掲げるも、2010年5月には沖縄県に県内移設を提示、県民の期待を裏切ったと非難された。

第二次安倍政権誕生で動く

2012年12月、総裁に返り咲いた安倍晋三率いる自民党が総選挙で大勝し政権を奪還すると、県外移設を断念した民主党政権を“県民への裏切り”と猛烈に批判した。
一方で、沖縄選出の自民党議員は「県外移設」を訴え比例復活を含め5人が国政に返り咲いた。この時点で自民党本部と自民党沖縄県連の間で移設問題をねじれが生じる。

党内にねじれを抱えたまま、安倍政権は辺野古移設を推し進める。焦点となったのは県知事による埋め立ての承認だ。知事の仲井真は民主党政権下の知事選で県外移設を公約にして当選していたため、政権交代後の対応が注目された。安倍政権は地元の自民党議員に県外移設の公約を撤回するよう迫った。小泉政権以降、強まった党本部の力に抗えず議員らは次々と公約を撤回した。辺野古移設が党の方針だと伝える場に同席させられた5人を見て、県内では「平成の琉球処分だ」と揶揄する声も上がった。

画像:平成の琉球処分

「沖縄を売った」のか 県政交代と新たな政治潮流

2013年12月、首相の安倍との面談を終えた仲井真は記者団に饒舌に“成果”を語った。2021年度までの8年間、毎年3000億円台の振興予算の確保などの約束を取り付け記者団に「良い正月になる」と述べた。その2日後には政府の埋め立て申請を承認すると発表、仲井真の一連の言動に県内世論は「振興と引き換えに埋め立てを承認した」と猛烈な批判が巻き起こった。仲井真は会見で基地と振興のリンク論ではないかとの指摘に声を荒げて反論し、首相と知事の政治決着であると強調した。

仲井真と翁長

仲井真の選対本部長を務めた翁長雄志は、承認に強く反対しとされる。自民党県連幹事長などを歴任し那覇市長を務める翁長は当時、沖縄保守会の重鎮だった。

2014年の県知事選で翁長は経済界や一部保守勢力、革新陣営と共闘し「オール沖縄」を旗印に知事に当選。3選を目指した仲井真だったが、公明党県本部も埋め立て承認に反発し自主投票となるなど支持基盤をまとめきれなかった。

翁長県政の誕生は保守・革新が一丸となって基地問題に対抗する、かつての「島ぐるみ闘争」を彷彿とさせた。翁長の政治家手腕に県民の期待は高まったが、待っていたのは安倍政権の冷淡な対応だった。

安倍首相
岸田政権

安倍一強の下で断絶した国と沖縄

7年8カ月の憲政史上最長の政権となった安倍政権で、普天間基地の移設問題を巡る国と県の関係断絶は決定的となった。
官房長官の菅義偉は知事に就任した翁長との面談で移設作業を「粛々と進める」と述べ、戦中戦後の沖縄の苦難の歴史に言及する翁長に対し「私は戦後生まれなものですから、歴史を持ち出されては困ります」と突き放した。

普天間基地の移設問題は国と県の法廷闘争に突入、翁長は2018年にすい臓がんで死去。衆院議員だった玉城デニーが知事に就任した。玉城はあらゆる場面で「対話」を求めたが、安倍が応じることはなく、政治での問題解決は暗礁に乗り上げた。

2020年に安倍が総理の座から退いたのちに誕生した菅政権も同様だった。宏池会所属の岸田は首相就任から「聞く力」を強調するが、沖縄のこれまでとこれからに向き合う姿勢は見られない。

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