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日本ロック界を席巻したバンド「紫」 代表曲『Double Dealing Woman』は初恋を元に…ヒットの原点は沖縄文化
沖縄県民誰もが知っている「ウチナーソング」に込められた思いを紹介する。今回のテーマは、音楽の街・コザが生んだ伝説のハードロックバンドの代表曲だ。
本土復帰の3年後にできた初のオリジナル曲
――この曲の印象は?
沖縄市20代:
お笑いの番組?沖縄のやつ?
沖縄市40代:
音楽界では神様じゃないですかね。ロック盛り上げたっていう
沖縄市60代:
あー、よく聴いたわ!まだあの時、中学生だった。通りごとにスピーカーから漏れてきたから
コザが生んだ伝説のバンド「紫」の代表曲『Double Dealing Woman』(1976年、作詞作曲:ジョージ紫)。インパクトのあるギターフレーズと重厚なサウンドが特徴。
沖縄テレビの人気番組「ひーぷーホップ」の爆笑伝説のコーナーでもおなじみのこの曲。2022年で結成52年を迎える紫のメンバーに、当時の制作秘話を聞いた。
ドラム 宮永英一さん:
初めてオリジナルを作るということになって、ジョージがしっかり自分の思い出を歌にして作った曲だから、かなり気合入ってるよ
キーボード ジョージ紫さん:
直訳的に言いますと「二股をかけている女性」のような。自分の初恋で実際、そういうことが起きた。沖縄が本土復帰してから、本土からいっぱい音楽関係者が来沖するようになって。紫の存在を知った本土のレコード会社の人たちが、オリジナル曲でアルバムを出すという話になったので、最初にできた曲
本土復帰の1972年から3年後の1975年、紫は代表曲『Double Dealing Woman』を引っさげ本土デビューを果たすと、瞬く間に日本のロックシーンを席巻。
1977年には音楽誌の人気投票で、ゴダイゴやチューリップといった人気バンドを抑え日本の頂点へと上りつめた。
耳の肥えた米兵相手に瓶を投げられることも
紫が結成されたのは、沖縄が本土に復帰する2年前の1970年。
ベトナム戦争真っ只中だった当時、基地の街・コザは毎晩のように賑わい、特にライブハウスはロック音楽を求める米兵と沖縄のミュージシャンで溢れかえっていたと言う。
ドラム 宮永英一さん:
米兵はシビアですよ。良いものと悪いものをはっきりしてますから。目を皿にしてね、僕らが間違わんか見てるわけよ。だから毎日、審査員の前でやってるようなもん。彼らとの勝負なんですよ。演奏じゃない戦い
ギター 比嘉清正さん:
瓶投げられたりとかね
ドラム 宮永英一さん:
下手だったら瓶投げられるよ
ハードロック全盛期と言われた1970年代、耳の肥えた米兵相手に重厚なサウンドと圧倒的なパフォーマンスを身につけた「紫」の名は、やがて全国に轟くように。快進撃を続ける紫の存在は、本土復帰直後の沖縄にとって大きな誇りとなった。
ヒット曲の原点は“力強い”沖縄文化にある
ギター 比嘉清正さん:
ウチナーンチュは高校野球もそうだけど、島をあげて応援するでしょ。そんな感じはあった
ドラム 宮永英一さん:
それと当時、高校に行けない子供たちってのは、みんな本土に就職に行かされるわけ。日本語まともに使える奴がいないわけです。ということは、向こうに行ったら差別されるわけ。あんたはどっから来たの?沖縄?英語使ってるんだってね?とか。でも、紫のデビューで共通の話題ができた。同じジェネレーションで。それで「おれは沖縄の出身だよ」って言えるきっかけを作ったという意味では、僕はそれが本当の紫の功績じゃないかなと思うよ
全国でも一大ブームとなった沖縄の音楽シーンの先駆けとも言える紫。ジョージ紫さんは「ヒット曲の原点は沖縄文化にある」と話す。
キーボード ジョージ紫:
沖縄の古典音楽から琉舞から空手も含めて、この文化というのは、力強さというのかな、これが根底にあるから、ここまでできたんじゃないかなと
2022年に結成52年を迎えた紫。その先に見据えるものとは…。
ギター 下地行男さん:
紫の音楽はウイルスとかじゃなくて、幸せのワクチンみたいな。それを目指している
ギター 比嘉清正さん:
もう70歳を超えるんだけど、いまだにやってるし、辞めようとも思わないし。これは幸せなことなんですよ
「紫」としてどこまで行くか、との問いに「倒れるまで」と語った。
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