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OKITIVE編集部

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体の弱かった少年が箱根駅伝に出場”マラソン日本代表”を見据える上原琉翔「挑戦することにビビらないで」

体の弱かった少年が箱根駅伝に出場 ”マラソン日本代表”を見据える上原琉翔 「挑戦することにビビらないで」

沖縄から箱根、そして実業団へ 富士通・上原琉翔が走り続ける理由とは

沖縄で野球に打ち込んだ少年が、長距離走と出会い、全国高校駅伝、箱根駅伝を経て実業団へ。社会人1年目の現在と、故郷への思いを聞いた。

体の弱かった少年が箱根駅伝に出場 ”マラソン日本代表”を見据える上原琉翔 「挑戦することにビビらないで」
2026年春富士通陸上競技部に加入©Fujitsu

那覇市出身で今帰仁村にある沖縄県立北山高校から國學院大學へ進み、大学4年間にわたって箱根駅伝に出場した上原琉翔選手。2026年春から日本のトップアスリートが名を連ねる富士通陸上競技部に所属している。社会人1年目に見据えるのは、ニューイヤー駅伝のメンバー入りと優勝への貢献。
そして、その先にはマラソン日本代表を見据えている。

体の弱かった少年が箱根駅伝に出場 ”マラソン日本代表”を見据える上原琉翔 「挑戦することにビビらないで」
川崎市の等々力緑地を走る上原琉翔選手

先月、陸上競技部が拠点とする神奈川県川崎市でこれまでの競技人生と沖縄の後輩たちへ伝えたい
言葉を聞いた。

目次

体の弱かった少年が、さまざまなスポーツに挑戦

現在は長距離ランナーとして全国の舞台を走る上原さんだが、幼い頃から陸上一筋だったわけではない。

上原琉翔選手
「生まれた時は体がとても弱く、しばらく保育器の中で過ごしていたと聞いています。そのこともあって、親がいろいろなスポーツを経験させてくれました」

体の弱かった少年が箱根駅伝に出場 ”マラソン日本代表”を見据える上原琉翔 「挑戦することにビビらないで」
少年時代は学童野球にのめり込んだ 写真提供:上原琉翔さん

小学生の頃には野球に水泳、そして、アマチュアとして競技を続けていた祖父の影響でゴルフも励んだ。その中でも、特に夢中になったのが野球だった。

上原琉翔選手
「小学校にある部活動では野球が中心でした。中学校でも投手をしていたので、当時は野球を続けたいという気持ちがありました」

体の弱かった少年が箱根駅伝に出場 ”マラソン日本代表”を見据える上原琉翔 「挑戦することにビビらないで」
写真提供:上原琉翔さん

「足腰を鍛えてこい」偶然始まった長距離走

長距離走との出会いは、中学1年生の頃。きっかけは地区の陸上大会だった。上原さんが通っていた那覇市立仲井間中学校には専門の陸上部がなかった為、大会が近づくと、野球部やほかの運動部から選手が集められた。
野球部で投手をしていた上原さんは、顧問の勧めもあって長距離走を選択。
本格的な陸上部がない環境で、野球と掛け持ちしながら始めた長距離走。中学2年生では駅伝で九州大会を経験し、3年生では県大会を制して全国の舞台に立った。

上原琉翔選手
「体格が小さかったこともあって、野球より陸上で勝負した方がいいんじゃないか、と周囲から言われたことが後押しになりました」

親友と選んだ北山高校への進学

中学卒業後の進路は、那覇市内の高校を含め複数の選択肢があった。最終的に選んだのは、沖縄県北部の今帰仁村にある県立北山高校だった。
その決断には、中学時代から一緒に走ってきた嘉数純平選手の存在が大きかったという。

上原琉翔選手
「純平が高校でも一緒に陸上をやりたいと言ってくれた。純平がいなければ、北山高校に進んでいなかったかもしれませんし、野球を続けていた可能性もあります」

体の弱かった少年が箱根駅伝に出場 ”マラソン日本代表”を見据える上原琉翔 「挑戦することにビビらないで」
嘉数純平選手(左)と上原琉翔選手(右) 写真提供:上原琉翔さん

沖縄の先輩から受け継がれるタスキ

走りの土台をつくった大城昭子さん

北山高校で上原選手を指導したのが、当時教員として陸上競技部の監督を務めていた大城昭子さんだ。沖縄の陸上競技の世界では名将として知られている。

県内では強豪として知られる北山高校だが、全国の大会では厚い壁に阻まれた。
当時の沖縄では、最新のトレーニング方法や専門的な情報に触れる機会が、関東などに比べて限られていた。大城先生はその差を埋めようと、県外へ出向いて走りの動きづくりなどを学び、北山高校の選手たちへ持ち帰ったと上原さんは振り返る。

新たな動きづくりを練習に取り入れてから、上原選手だけでなくチーム全体の競技力も高まった。環境の違いを嘆くのではなく、少しでも新しい知識を選手へ届けようとする姿勢が、全国に挑む土台をつくった。

上原琉翔選手
「先生の熱意に応えたいという思いがありました。自分たちが結果を出すことが、先生への恩返しにもなると思っていました」

体の弱かった少年が箱根駅伝に出場 ”マラソン日本代表”を見据える上原琉翔 「挑戦することにビビらないで」
高校時代の恩師・大城昭子さんとの交流は今も続いている 写真提供:上原琉翔さん

「沖縄からでもできる」道を示した濱崎達規さん

体の弱かった少年が箱根駅伝に出場 ”マラソン日本代表”を見据える上原琉翔 「挑戦することにビビらないで」
濱崎達規さんとの交流する中でアスリートとしての視座を開いた 写真提供:濱崎達規さん

もう一人、上原選手の競技人生に大きな影響を与えたのが濱崎達規さんだ。濱崎さんは沖縄から亜細亜大学に進学し、2009年、2010年に箱根駅伝に出場、その後は小森コーポレーションで実業団ランナーとして活躍後、現在は沖縄県南城市での陸上クラブ「なんじぃAC」で後進の指導にあたっている。

上原選手は中学生の頃、野球を続けながら地域の長距離練習にも参加し、県代表として出場した都道府県対抗駅伝などを通じて濱崎さんと交流するようになった。

体の弱かった少年が箱根駅伝に出場 ”マラソン日本代表”を見据える上原琉翔 「挑戦することにビビらないで」
写真提供:濱崎達規さん
体の弱かった少年が箱根駅伝に出場 ”マラソン日本代表”を見据える上原琉翔 「挑戦することにビビらないで」
写真提供:濱崎達規さん

上原琉翔選手
「濱崎さんに憧れて、長距離はかっこいいと思うようになりました。濱崎さんのように実業団で活躍して、沖縄の子どもたちに良い影響を与え、目標になれる選手になりたいという思いがあります」

日々の練習を通して走りの土台を築いた大城先生と、沖縄から全国へ挑む将来像を示した濱崎さん。

二人から受け取ったものは、富士通で競技を続ける現在の上原選手にもつながっている。
「大城先生や濱崎さんをはじめ、沖縄で支えてくれた人たちへの恩返しは、自分が最前線で挑戦し続けることだと思っています。子どもたちの憧れや目標になれるような存在になりたいです」

弱かった頃から見てくれた國學院大學

國學院大學を意識したのは、高校1年生の頃だった。同大学が出雲駅伝で優勝した姿が印象に残っていたほか、國學院大學が沖縄で実施していた合宿に参加する機会を得た。

高校2年生になり、記録や大会成績が伸び始めると正式に声をかけられた。高校3年生の春には5000メートルで13分台を記録。複数の強豪校から誘いを受ける中で、國學院大學への進学を決めた。

上原琉翔選手
「自分が弱かった時期から見ていて、声をかけ続けてくれた國學院大學で技術を伸ばしたいと思った」

しかし、大学での競技生活は順調なスタートではなかった。
高校までは5000mや10000mが主だったが、大学三大駅伝の一つ、箱根駅伝は20キロを超える区間もある。高校と比べると練習量が一気に増えた。

入学した4月から7月頃までは故障でほとんど走れなかったが、夏合宿で先輩たちに食らいつく。秋以降に結果を残し、大学1年生で箱根駅伝のメンバー入り。その後も4年間にわたって箱根路を走った。

体の弱かった少年が箱根駅伝に出場 ”マラソン日本代表”を見据える上原琉翔 「挑戦することにビビらないで」
國學院大學では1年生から箱根駅伝に出場 写真提供:上原琉翔選手

親友と共につかんだ初優勝

体の弱かった少年が箱根駅伝に出場 ”マラソン日本代表”を見据える上原琉翔 「挑戦することにビビらないで」
写真提供:上原琉翔さん

大学時代で最も印象に残るレースとして、上原選手は3年生で出場した全日本大学駅伝を挙げた。
國學院大學にとって大会初優勝となったレースで、1区を嘉数純平選手が走り、上原選手はアンカーを任された。

上原琉翔選手
「國學院大學として初めての全日本大学駅伝の優勝、純平が1区を走って、自分がゴールテープを切った事が感慨深かったです」

嘉数選手とは、中学、高校、大学と、およそ10年間を共に過ごした。親友であり、ライバルであり、同じ目標を追ってきた仲間だった。

上原琉翔選手
「純平とは、もう人生の半分近くを一緒にいます。高校から寮生活も一緒で、寝る時もずっと一緒でした。本当に兄弟のような存在です。純平がいたから負けたくないという気持ちで成長できた」

体の弱かった少年が箱根駅伝に出場 ”マラソン日本代表”を見据える上原琉翔 「挑戦することにビビらないで」
大学4年の箱根駅伝で嘉数純平さんはメンバーから外れたが「給水」で上原さんにエールを送った 写真提供:上原琉翔さん

富士通で始まった、個人としての勝負

2026年春、上原選手は名門・富士通陸上競技部へ加入した。大学では駅伝を中心にチームのために走る意識が強かった。一方、実業団では選手ごとに目指す種目や大会が異なる。

上原琉翔選手
「実業団ではニューイヤー駅伝というチームの目標もありますが、トラックを目指す選手、ロードを目指す選手、マラソンに取り組む選手がいて、個人の勝負という部分が大きくなりました」

自由度が増えた反面、自分自身で目標とモチベーションを維持しなければならない。会社の名前を背負い、競技で結果を求められる。学生時代とは異なる責任の中で、新たなスタートを切った。

体の弱かった少年が箱根駅伝に出場 ”マラソン日本代表”を見据える上原琉翔 「挑戦することにビビらないで」
伝統ある実業団で研鑽を積む日々©Fujitsu

ニューイヤー駅伝、そしてマラソンへ

体の弱かった少年が箱根駅伝に出場 ”マラソン日本代表”を見据える上原琉翔 「挑戦することにビビらないで」
第2の故郷ともいえる川崎市で日々のトレーニングを積み重ねる 取材協力:等々力緑地

社会人1年目の目標は、ニューイヤー駅伝のメンバーに入り、富士通の優勝に貢献することだ。

上原琉翔選手
「大学最後の箱根では、個人としても納得できる結果ではなかった。ニューイヤー駅伝で、その悔しさを返したいという思いがあります」

ニューイヤー駅伝の正式名称は「全日本実業団対抗駅伝競走大会」。毎年1月1日(元日)に開催される、社会人実業団チームによる駅伝日本一決定戦である。国内トップクラスの選手がそろう富士通で、メンバー入りは簡単ではない。

体の弱かった少年が箱根駅伝に出場 ”マラソン日本代表”を見据える上原琉翔 「挑戦することにビビらないで」
取材協力:等々力緑地

上原琉翔選手
「マラソンで勝負したいと決めて富士通に入りました。1年目から挑戦したいという思いがあります。まずはMGCに出なければ、その先には進めません。そこを一つの目標にしていきたいです」

体の弱かった少年が箱根駅伝に出場 ”マラソン日本代表”を見据える上原琉翔 「挑戦することにビビらないで」

「沖縄の長距離」をもっと知ってもらうために

沖縄では野球やバスケットボールに比べると長距離競技は、まだ広く知られているとはいえない。
全国の舞台に立つようになってからも、「沖縄出身ランナー」であることを積極的に発信してきた上原さんが目指しているのは、自分の知名度を上げることだけではない。

上原琉翔選手
「沖縄出身であることが、自分にとって一番の強みだと感じています。支えてくれた方々に恩返しできるのは、自分が最前線で挑戦し続けること。
沖縄の子どもたちの憧れや目標になれるような存在になることが、自分なりの恩返しです」

「挑戦することにビビらないで」

体の弱かった少年が箱根駅伝に出場 ”マラソン日本代表”を見据える上原琉翔 「挑戦することにビビらないで」

沖縄を離れて県外へ進学、就職することに、不安を感じる若者もいる。上原さん自身、親元や友人から離れ、関東で生活することへの不安はあった。それでも、全国で勝負したいという気持ちが上回った。

上原琉翔選手
「大学でも専門学校でも、競技以外のことでも、やってみたいことや挑戦してみたいことがあるなら、全力でやった方がいいと思います。
挑戦する事にビビらないで。何が起きるかは、やってみなければ分かりません」

高校生の頃は、大学駅伝の強豪校で主将になることも、箱根駅伝を4年間走ることも想像していなかった。野球少年として始まった上原琉翔選手の物語は、沖縄から全国へ、学生駅伝から実業団へと続いてきた。さらなる高みを目指して上原選手はこれからも最前線を走り続ける。

PROFILE
上原琉翔(うえはら・りゅうと)
沖縄県出身。県立北山高校から國學院大學へ進学。大学では箱根駅伝に4年連続で出場し、全日本大学駅伝では國學院大學の大会初優勝に貢献した。最終学年には陸上競技部の主将を務めた。2026年春から富士通陸上競技部に所属し、ニューイヤー駅伝やマラソンでの活躍を目指す。

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