エンタメ,テレビ,復帰50年,文化
宮里 定三~沖縄観光の父~【オキナワ強者(チューバー)列伝】
1972年5月15日、沖縄は日本復帰。あれから50年という歳月が流れた。
戦後、アメリカの占領統治下での苦難を乗り越え「復帰」にたどり着いた沖縄。
世紀の「世替わり」の裏側では、時代を切り拓いた「強者(チューバー)」がいた!
「世替わり」という激流の中で奮闘した「強者」の姿にスポットを当てる!
※チューバー:琉球語で「強い」「強がる」「気が強い」「勇気がある」の意
好評につき年末に一夜限りの復活!テーマは「観光」
戦後、荒廃した沖縄が日本屈指のリゾートアイランドに成長するには多くの困難があった。
米軍統治下や海洋博ショックなど、様々な難局を打破してきた強者たちの熱い物語!
強者(チューバー)1人目は、沖縄観光の父と称された宮里定三!!
1912年羽地村真喜屋生まれ 叔父からの誘いで1931年からは神戸の旅館で働いていた宮里定三。
そんなある日、「沖縄にも貴賓ホテルを建ててほしい」と叔父へ当時の県知事たちから依頼があった。
それもそのはず、当時の沖縄は観光地ではなく、研究・探検するような土地として認識されていて、宿泊宿も民宿のような施設しかなかった。
ようやく重い腰を上げたかと思えば、叔父はホテル建設を結婚したばかりの定三に任せた。
定三は29歳という若さで大事業を見事に成功させた。現在の那覇市波之上宮前に沖縄初のホテルとなる「沖縄ホテル」を建設した。
戦火に燃えた沖縄ホテル
朱色の瓦屋根に総ヒノキの造り、内装にもこだわり紅型をあしらうなど、どこにもない沖縄らしい貴賓ホテルとなった。
しかし、1941年に完成した沖縄ホテルは、1945年米軍の艦砲射撃によって燃失。
定三は従業員を引き連れて北部へ疎開し、収容所で終戦を迎えることとなる。
定三が精魂込めて創った沖縄ホテルは戦火で焼失してしまったが、定三の闘志はまだ燃え尽きていなかった・・・。
その後、”沖縄観光の父”と称されるほどに沖縄の観光業界をけん引した定三の半生とは!?
「アメリカ世」から「ヤマトの世」へ!「復帰」という時代の大転換の荒波の中、様々なジャンルで沖縄のために奮闘した「強者(チューバー)」たちの熱い物語を、沖縄テレビが記録したアーカイブ映像や、証言をもとにしたドラマで振り返る!
あわせて読みたい記事