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OTV報道部

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芥川賞作家・大城立裕と対馬丸 アニメ映画に込めた犠牲者への想い

1982年に公開された「対馬丸-さようなら沖縄-」
この作品の原作者は、沖縄初の芥川賞作家で2020年に亡くなった大城立裕さんだ。

子どもたちに対馬丸の悲劇を知ってほしいと取り組んだ映画制作。
そこには大城さんが未来にあてたメッセージがある。

1400人あまりが犠牲に 学童疎開船「対馬丸」の悲劇

映画「対馬丸-さようなら沖縄-」。
戦争をテーマにしたアニメ映画の先駆け的な作品だ。

映画の舞台は太平洋戦争末期、1944年8月の沖縄。
疎開する子どもたちを乗せた対馬丸は、長崎へ向け那覇港を出航。

しかし、航路となる海域はアメリカ軍に制海権を握られ、軍は危険な状況を承知で学童疎開を強行した。

そして出港翌日の8月22日午後10時過ぎ…

アメリカ軍の潜水艦の攻撃を受け、多くの子どもたちを乗せたまま対馬丸は沈没。
わかっているだけで1484人が帰らぬ人となった。

映像:沖縄県映画センター

映画では、語り部として長く活動し、2023年7月に亡くなった平良啓子さんの体験も織り込まれている。

平良啓子さん
「もう、どうしていいかわからないから。『おばあちゃん、おねえちゃん、助けて、どこ行った』って言っても返事がないし」

原作を手がけたのは、沖縄初の芥川賞作家、大城立裕(おおしろ たつひろ)。

大城が対馬丸事件を知ったのは、作家として駆け出しのころ。
遺族会から事件に関する記録をまとめてほしいと依頼を受けた。

軍が箝口令(かんこうれい)を敷いた対馬丸事件は、詳細な被害の実態調査が行われなかった。

大城は後に沖縄の文学界を牽引する作家仲間の船越義彰(ふなこし ぎしょう)・嘉陽安男(かよう やすお)と共に関係者への聞き取りを重ね、共著『悪石島』を書きあげた。

取材を積み重ねていくうちに、子どもたちがあまりに悲惨な状況で命を奪われたことに、大城は衝撃を受けた。

『悪石島』(文林書房・1961年)より
「無邪気なかれら、夢をみていたかれらが、おとなたちの戦争のまきぞえをくって、死んでいきました。あの暗い思い出を、悲しみや怒りにつつんで、たえず腹の底にたたえています」

戦争を扱うアニメ映画 前例のない取り組みに反対の声も

1967年に大城が『カクテル・パーティー』で芥川賞を受賞すると、対馬丸に関する本も一時注目を集めた。

『悪石島』の発刊から20年あまり。より多くの人に対馬丸事件を知らせたいと、大城は映画の制作に乗り出す。

スタッフとして制作に携わった本村初枝さんは、当時をこう振り返る。

沖縄県映画センター 本村初枝 代表
「映画化したらどうかという話は、ずいぶん前から上がっていたけれども、あまりにも無残なシーンになるので、どうしたらいいかと長いこと大城立裕先生は悩んでいたようですが、私たちの提案で、アニメーションで描いたらどうかと」

県民の力で映画を作ろうと1枚500円の制作協力券を作り、資金を募った。
政治的な運動とみられないよう大城らは街頭に立ち、映画制作の意義を訴えた。

戦争を扱うアニメ映画という前例のない取り組みは、遺族から反対の声も少なくなかったという。

沖縄県映画センター 本村初枝 代表
「遺族会のなかでは、観るのも嫌、思いだすのも嫌だと、映画を作ってほしくないという意見もずいぶんありました。やっぱり自分の身内、大事な人たちが命を落としていくのを表現していくわけですから」

幼い子どもが母に取りすがる幻影が見えた

「二度と対馬丸のような悲劇を起こさないために」
遺族の理解を得ようと奔走する関係者のなかに、立法院議員などを歴任した新里清篤(しんざと せいとく)がいた。

大城に対馬丸に関する記録の執筆を依頼したのが、遺族会会長だった新里であった。

彼は対馬丸で身重の妻と3人の子を亡くした。
当時、国民学校教員で疎開を促す立場だった新里は悩んだ末に、家族を対馬丸に乗せた。

沈没を知ったときの心情を、大城らの取材に語っていた。

『悪石島』(文林書房・1961年)より
「小学校三年生の清好(きよたか)、幼稚園生の清秀(きよひで)、三つになる清子(きよこ)、みんな幼い。この幼い子供たちが、その母に取りすがっている幻影が見えた。苦しんだのではないだろうか。泣きながら名護の町を歩いた」

アニメ映画「対馬丸-さようなら沖縄-」は1982年に公開され、大きな反響を呼んだ。

映画を鑑賞した子
「みんな12歳とか13歳とか、5歳とか6歳とかたくさん乗っていて、あの人たちは何も戦争には関係ないのに、何で死んでいったのかなって。そして、私たちも同じ年代だから絶対こういうことを繰り返してはいけないなって、涙があとからポロポロ流れて。本当にかわいそうでしょうがなかった」

映画化されるのが皮肉 それだけの理由がある

大城にとってアニメ映画の完成は、一つの節目となった。
この時のインタビューが残されている。

大城立裕 氏
「泣けて泣けて仕方がなかったですね。嗚咽(おえつ)を堪えるのに苦しかったくらいでした。事件のあと40年近いんですが、いま映画化されるということが皮肉な感じがしますけれども、やっぱり、それだけの理由があるんでしょうね」

大城は映画について、次のようなメッセージを綴っている。

原作者メッセージ
「これらの本や映画を見る必要のない時代が来ることをこころから願っていますが、その日のためにこそ、またこの映画や本を多くの親と子に見てほしいと思います」

私のできる範囲で語り部をやっていきたい

対馬丸沈没から79年となった2023年8月22日の慰霊祭。

体験者として当時のことを鮮明に語れる人は少なくなった。

対馬丸記念会 髙良政勝 理事長
「(体験者が)いないからといって、諦めるわけにはいかない。私のできる範囲で語り部をやっていきたいと思っています」

語り継がれてきた戦争の歴史に何を学び、どんな未来を選ぶのか、私たちは問われている。

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