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OKITIVE編集部

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沖縄伝統芸能ぬ花ゆ咲かし~川崎沖縄芸能研究会~

1949年(昭和24年)焼け残りの舞台衣装や三線を持ち寄り設立 提供:川崎沖縄芸能研究会

沖縄戦で焦土と化したなかで、沖縄の人々がブリキ缶で作った「カンカラ三線」を手に歌い復興への活力を奮い立たせたように、遠く離れた地域からもウチナーンチュは故郷の伝統芸能文化へ思いを馳せていた。

その一つが、大正時代から多くのウチナーンチュが移り住んだ神奈川県川崎市で、1949年(昭和24年)には「川崎沖縄芸能研究会」が結成された。

舞踊・三線・琉球箏など、故郷の伝統文化を紡いで70年あまり。その功績が認められ、川崎市と神奈川県両指定無形民俗文化財にも指定されている。
去る2023年10月15日には第86回を迎える「沖縄芸能大会」を開催した。

第86回沖縄芸能芸能大会 
古典舞踊など16演目が披露
会場は沖縄ムードに包まれた

「故郷から遠く離れた地で、地縁・血縁もない環境を乗り越えてこれたのは、いつも沖縄の伝統芸能があったから。コロナ禍で、活動が制限されるなど厳しい状況もあったが、先輩たちから受け継いできた沖縄の伝統芸能への思いを後世に繋いでいきたい。」

こう話すのは「川崎沖縄芸能研究会」の会長を務める名嘉ヨシ子さん(旧姓:具志)。
「琉球箏曲興陽会」の箏曲家としても活動しながら、後進の指導にもあたっている。

川崎沖縄芸能研究会 名嘉ヨシ子会長(旧姓:具志)
父・三郎さんと演奏するヨシ子さん(当時9歳) 提供:本人
集団で筝を奏でるヨシ子さん(左手前)
1969年(昭和44年)教師免許を授与 提供:本人

那覇市出身のヨシ子さんはラジオから聞こえてくる箏の音色に惹かれて、琉球箏曲を始める。沖縄本土復帰の翌年の1973年、結婚を契機に横浜市鶴見区に移住。嫁ぎ先は沖縄出身者が設立した電気工事会社。従業員には他県の方もいたが、高校卒業と同時に沖縄から上京した従業員のため沖縄料理を週に2,3回ほど作っていた。
そんな中、沖縄の食材を買うために訪れた鶴見の沖縄タウンで、偶然、店の奥から箏の音色が聞こえた。

川崎沖縄芸能研究会 名嘉ヨシ子会長
「本土で、琉球箏の音色を聞くとは思っていなかったから驚いた。県外でも伝統芸能を守る人たちの存在を知り、勇気づけられた。」

琉球箏曲興陽会関東支部発足記念講演(左から1人目が名嘉ヨシ子さん) 提供:本人

川崎沖縄芸能研究会に入会し、琉球箏曲の活動を再開した名嘉さん。
川崎・鶴見を拠点に1人の琉球筝曲家として研鑽しながら、三線の奏者や琉球舞踊の舞踊家と共に、沖縄の伝統芸能の普及に努めてきた。
国指定重要無形文化財琉球古典音楽保持者の故・照喜名朝一さんが上京し、公演する際には共演する機会も多かったようだ。

故・照喜名朝一さんと共演する名嘉ヨシ子さん 提供:本人

川崎沖縄芸能研究会の会長として、故郷の芸能をどう後世につなげていくか、展望を聞いてみた。

川崎沖縄芸能研究会 名嘉ヨシ子会長
「伝統芸能は県外に移り住んできたウチナーンチュの心の支えでもあった、技術はもちろんのこと、先輩方から受け継いできた沖縄の伝統芸能への思いをさらに根付かせていきたい。」

提供:川崎沖縄芸能研究会

生り島離り 沖縄伝統ぬ 技磨ち肝ぬ 花ゆ咲かし

この歌は1949年(昭和24年)の結成から、50年の節目を祝って故・照喜名朝一さんが、川崎沖縄芸能研究会に詠まれたものだ。(引用:「川崎沖縄伝統研究会五十年の歩み」)

場所や時を超えて沖縄の伝統芸能は今も受け継がれている。

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