SDGs,暮らし
役に立たなくなったら、さようなら?約5000年の時を振り返る”沖縄の離島”で”馬とゴミ”から考えたこと
こんにちは!「水中ゴミ拾い専門店 Dr.blue」で、ゴミ拾いダイビングインストラクターをしている東 真七水です。
海底に沈んだゴミをスキューバダイビングで回収しながら、「水中ゴミ拾い」をマリンアクティビティとして広める活動をしています。
実は冬の間、ダイビングの活動を少しお休みし、久米島の馬牧場で研修生として過ごしていました。
そして今月から、再び海へ戻り、ダイビングを再開しています。
海から少し離れ、馬と過ごす時間の中で、現代の馬とゴミ問題には、ある共通点があることに気づきました。
そして、強く考えるようになったことがあります。
それは、「役割を終えたものがどう扱われるのか」ということです。
馬は約5000年もの間、人とともに生きてきた存在です。
移動や農作業、戦や物流など、暮らしのあらゆる場面を支えてきました。
かつて日本には約150万頭の馬がいましたが、現在ではおよそ7万頭ほどにまで減少しています。特に戦後は機械化が進み、1960年代には馬はほとんど社会から姿を消しました。
現在は競走馬や観光、セラピーなどで活躍していますが、役割が限られたことで、引退後の行き場が課題となっている現実もあります。
ここで少しだけ、別の視点のお話をさせてください。
みなさんは、競走馬ではなく、日本在来馬(にほんざいらいば)をご存知でしょうか。
日本にはかつて、地域ごとの暮らしに寄り添う形で、小柄でたくましい在来馬たちが存在していました。
沖縄には与那国馬や宮古馬、北海道の道産子など、その土地の環境や文化に適応しながら、人と生きてきた馬たちです。
しかし、農業の機械化や生活様式の変化、明治以降はより大きく力の強い馬を求めて海外の馬との交配が進められたことで、在来馬の数は急激に減っていきました。
その結果在来馬は絶滅の危機にあるといわれ、保存活動によってなんとか命がつながれている状況です。
在来馬の姿を見ていると、役に立つかどうかだけでは測れないものが、確かにあると感じさせられます。
さて、私は海に戻り再びゴミを拾っています。
ペットボトルやビニール袋、空き缶。
それらもすべて、飲み物を運び、物を包み、便利さを支えていた存在で、人の生活の中で一度は「役に立っていたもの」です。
けれど、その役割が終わった瞬間、それらは一気に「不要なもの」へと変わり、気づけば海へと流れ着いています。
役に立つ間は必要とされ、役割を終えた瞬間に価値を失うのです。
馬と海ごみ。
まったく違う存在のようでいて、どこか似た構造があるように感じました。
私たちは日々、「役に立つかどうか」で自分や他人の価値を見てしまうことがあります。
仕事や肩書き、生産性、気づかないうちに、それが基準になっていることも少なくありません。
これはモノや動物の話のようでいて、実は私たち人間の話でもあるのではないかと思います。
だからこそ私は、ゴミ拾いをしているものの、ゴミをただのゴミとは思っていません。
それは単なる環境活動だけでなく、役割を終えたものと向き合う行為でもあると思っているからです。
海と馬、どちらの時間も経験した今、より強く感じています。
久米島牧場にも、さまざまな背景を持つ在来馬たちがいました。
元気に乗馬体験で活躍する馬もいれば、まだ仕事を知らない若い馬、片目が見えない馬、足が不自由な馬もいます。
そんな馬たちと関わる中で、こんなにも人に近い存在で、深く関われる動物だということを初めて知りました。
「馬が合う」という言葉があるように、人と同じように相性があり、関係性があり、少しずつ信頼関係が築かれていきます。
そのため日本語には驚くほど多くの馬にまつわる言葉が残っていて、それだけ人の暮らしに近い存在だったことが伝わってきます。
そうした文化や関係性もまた、少しずつ失われつつあるのかもしれません。
現代はとても便利な時代で、車があり、機械があり、効率よく生活できます。
でもその裏には、長い時間をかけて積み重ねられてきた自然や歴史があり、そして役割を終えていった存在たちがあるということを改めて感じました。
便利を追求するがゆえに、その背景にある努力や変化、失われてきたものに気づかないまま過ごしてしまっています。
役に立つかどうかだけでは測れない価値。役割が終わったあとにも残るもの。
そして、そこにあった時間や関係性。
そうしたものに目を向け、感謝することが、これからの時代を変えていくヒントになるのかもしれません。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました♩
また次回も海やゴミ拾いからの気づきをお届けいたします。
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