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【沖縄の格闘技界を変えた男 松根良太】Part.02 修斗に魅せられた学生時代 格闘家・松根良太が誕生するまで
目次
世界最高峰の総合格闘技団体・UFCの舞台で戦う県出身の総合格闘家 平良達郎。
平良達郎を育て上げ世界の舞台へと押し上げたのが、津堅島出身の松根良太だ。
Part1では2012年のジム開設からUFCファイター誕生までの道のりを記したが
Part2では格闘家としての松根良太の生き様、指導者としての情熱に迫る。
入退院を繰り返した中学時代
「父親は津堅島出身、母親は伊是名島出身です」
沖縄県那覇市の産婦人科で生まれ、父親の出身地である津堅島で育った松根。
3歳からは父親の仕事の影響で千葉県に移った。
「小学生のときは夏休みになると沖縄に帰って、学校が始まったら千葉に行ってという生活でした。小さい頃から運動が大好きで小学生の時は体操もやっていました。ただ中学生の時に腎臓の病気にかかってしまって3年間運動がまったくできませんでした。体育の授業もずっと見学という中学時代で。入退院を繰り返していました」
中学生だった松根を襲ったのは「ネフローゼ症候群」
尿中に大量のタンパク質が排出されることによって体内に水分が留まりやすくなり、むくみや体重増加などの症状が現れる。
「ネフローゼは腎臓で栄養をろ過することができない病気なのでステロイドの薬を使っていました。運動もできないし塩分制限もあるし。ムーンフェイスといって顔も膨らむし。思春期という事を考えると辛い3年間だったと思いますね」
「そういう事があったので、高校生になったら絶対に運動をやりたいと思っていたんですよ。高校に入って、まず空手部に入りました。空手をやっていた時に“修斗”を雑誌で見たんです。当時の佐藤ルミナ選手に憧れて、この道しかないと心に決めました。こんなにかっこいい人がいるのかと。自分も強くてかっこいい人になりたい。就職や大学という選択肢は1ミリもなく、絶対にこれでプロになるんだと決めました」
修斗ジャンキーと呼ばれた現役時代
1984年、初代タイガーマスクとして一世を風靡した佐山聡によって創設された総合格闘技・修斗。修斗のカリスマと呼ばれた佐藤ルミナの試合を見て、松根は修斗の虜になった。
「16歳で格闘技を始めた時に、修斗で絶対にチャンピオンになるんだと決めていました。本当に毎日練習していましたね。今は競技が確立されていて、プロ選手も週に1回は休みをとりますが、当時は練習方法も確立されていなかったので、本当に毎日、週7回練習をしていまたね」
師と仰ぐ鶴屋浩(扇久保博正など数々の名選手を育て上げた)のもと練習漬けの日々を送った松根。
「挫折ももちろんありました。辛いこともたくさんありましたね。一言では言い表せないくらいの厳しい練習をしてきたなと思います。厳しい試合もたくさんして、悔しい気持ちもたくさん味わいましたし、勝ってうれしい気持ちもありました。師匠への感謝、仲間への感謝、色んなものがありすぎて言葉では言い表せないですけど、簡単ではなかったですね」
18歳でプロデビューを果たした松根。“修斗ジャンキー”の異名を持ち、2003年には修斗世界フェザー級王者に戴冠。史上2番目の若さで修斗世界王者となった。
「本当につらく厳しい練習をしてきたからこそチャンピオンになれたかなと思いますね。
チャンピオンになって夢は叶えた。今度はチャンピオンになった時のうれしさを仲間にも味わってもらいたいと思うようになりました。」
「人が好き」指導者・松根良太
選手として活躍する傍ら、師匠・鶴屋浩のもと指導者としても活動していた松根。
「千葉で技術やノウハウを学んでいて、29歳か30歳で独立しようという想いがありました。鶴屋浩さんも29歳で独立しているので。師匠の背中を見て育ってきたので、僕も29歳で独立しようと思いました」
独立しジムを開く場所に選んだのは、故郷沖縄だった。
「千葉や東京で独立することも考えたんですけど、沖縄にも年に2回くらい帰っていて沖縄は楽しい思い出しかなかったんですよ。学生の時は夏休みになると沖縄に帰って、はやく沖縄に行きたいと思いながら1学期、2学期、3学期を過ごしていましたし現役の時もオフになると沖縄を訪れていました。大好きな沖縄で大好きな格闘技を広めようと思いました」
「人に教えてその人が勝つというのが自分の中での楽しみ、幸せの大部分を占めています。
人が好きなんですよね。千葉にも沖縄にも後輩がたくさんいて、その人たちの人生を見届けるのが好きというか。格闘技だけではなくて、最近彼女ができたとかあの子と別れたとか、そういう事を見るのが好きなんですよ。人の人生を見るのが趣味なんでしょうね。笑」
だからこそ松根の周りには選手が集まってくる。松根が主宰するTHE BLACK BELTジャパンのプロ練に参加するのは所属ジムの選手だけではない。県内の別のジムからも、県外のジムからも多くの選手が共に汗を流す。
「これは千葉もそうなんですよ。ジム単位で強くなるというのももちろんあるんですけどね。千葉時代には、茨城から川尻達也(元UFCファイター)さんが松戸まで練習に来てくれていましたし、東京から練習に来てくれる人もたくさんいました。周りのジムと良いところを出し合って練習して強くなるという文化が千葉にあったので、それをそのまま沖縄でやっている感じですね」
沖縄全体で強くなる。それが指導者・松根良太の信条だ。
[執筆:植草凜(沖縄テレビアナウンサー)]
【沖縄の格闘技を変えた男 松根良太 Part3】では、
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